1224年(貞應3年)6月13日、二代執権北条義時が急死。
6月26日、知らせを受けた北条泰時が六波羅から鎌倉に到着。
そして、6月28日、北条政子と対面。
「北条時房を後見役として武家政治を執行するように」と命じられました。
急ぎ過ぎるのではないかと心配する泰時に大江広元は、
「遅すぎるくらいです。
世間の人々が何かと疑いをもたないうちに決めてしまった方が良いでしょう」
と語ったのだといいます。
義時の死後、鎌倉では泰時が弟の政村らを討ち滅ぼすため京都を出発したという噂が流れていたそうです。
政村の母は伊賀の方。
伊賀の方は、娘婿の一条実雅を将軍にして、政村を執権に据えようと企てていたのだといいますが、泰時は伊賀の方の謀反を否定しています。
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