別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2019年9月21日土曜日

源義朝

源義朝
(愛知県美浜町・法山寺)


源義朝は、河内源氏6代目。

1123年(保安4年)に誕生。

父は源為義

母は藤原忠清の娘。

河内源氏は、本拠地は河内国古市郡壷井。

初代頼信、二代頼義、三代義家の活躍により「武家の棟梁」と称されますが、義家死後は一族の内紛などによって衰えてしまいます。


壺井八幡宮

大阪羽曳野市の壺井八幡宮は、源頼義の創建で河内源氏の総氏神として信仰された社。


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~東国下向~

そんな時代情勢の中に生まれた義朝は、少年期に東国へ下向。

頼義が前九年の役で得た安房国の丸御厨に住んだ後、上総国へ移って上総氏の庇護を受けていたものと考えられています。

そのため、「上総御曹司」と呼ばれました。

※義朝の東国下向は、為義から廃嫡されたためという説もあります。


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~東国に勢力~

東国で成人して相模国に本拠を置いた義朝は、1143年(康治2年)から1145年(久安元年)にかけて相馬御厨を、1144年(天養元年)には大庭御厨の支配権に介入して、有力豪族を傘下に収め、勢力を伸ばします。


寿福寺

義朝は、先祖頼義が平直方から譲り受けた鎌倉の亀ヶ谷に館を構えます。

壽福寺はその旧跡に建てられた寺です。


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~中央へ進出~

南関東の武士団を統率する地位を確立した義朝は、東国を長男の義平に任せて中央へ進出し、熱田神宮大宮司藤原季範の娘由良御前を正室に迎えます。

1147年(久安3年)には嫡男の頼朝が誕生。


熱田神宮


その後、院近臣を後ろ盾とした義朝は、1153年(仁平3年)に下野守に任じられ、都の武者としての地位を高めていきます。

一方、対立関係にあった父の為義は、次男の義賢を北関東に下向させて、義朝を牽制しますが、1155年(久寿2年)、義朝は、鎌倉の義平に命じて義賢の大蔵館を攻めさせて討ち取り、東国での地位を固めます。


源義賢の墓


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~保元の乱~

1156年(保元元年)は、皇位継承問題と摂関家の内紛から起こった保元の乱で、義朝は平清盛とともに後白河天皇に味方して勝利します。

この乱で摂関家に味方した為義は、義朝に斬首されています。




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~平治の乱~

保元の乱は、3年後に新たな対立を生みます。

保元の乱で活躍した義朝と清盛の間にも大きな溝が生まれました。

そして起こったのが、1159年(平治元年)12月の平治の乱。

13歳の頼朝も源家重代の源太産衣(げんたがうぶぎぬ)を着用し、髭切の太刀(ひげきりのたち)を帯びて初陣しますが・・・。

12月27日、父義朝は清盛に敗れ、東国で再起を図るため京を脱出します。

しかし、翌1160年(平治2年)1月3日、尾張国で長田忠致の裏切りに遭って殺害されました。



源義朝の墓
(愛知県美浜町・野間大坊)






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