信西追討の恩賞として源義朝は播磨守に、子の頼朝は右兵衛権佐(うひょうえごんのすけ)に任ぜられました。
頼朝は、この時から「佐殿」(すけどの)と呼ばれるようになります。
源頼朝が畠山重忠に命じて建立させたという佐助稲荷神社。
「佐助」という名には「佐殿を助けた」という意味があるのだとか・・・。
(鶴岡八幡宮)
鶴岡八幡宮の白旗神社は源頼朝を祀る社。
「武衛殿」の額が掲げられています。
「武衛」は兵衛府の唐名。
つまり、右兵衛権佐だった頼朝のこと。
『吾妻鏡』は、1185年(元暦2年)に平宗盛を捕えた勲功によって従二位に叙されるまで、頼朝のことを「武衛」(ぶえい)と記載しています(その後は二品)。
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参考までに・・・
『吾妻鏡』は頼朝のことを、1190年(建久元年)11月9日に大納言に任じられてからは「大納言家」、11月24日に右大将に任じられてからは「右大将家」、12月3日に大納言と右大将を辞してからは「前右大将家」、12月10日からは「幕下」、1192年(建久3年)7月26日に征夷大将軍の辞令を受けてからは「将軍家」と呼んでいます。
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