別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2020年7月12日日曜日

源頼朝に征夷大将軍の辞令


源頼朝像
(源氏山公園)


『吾妻鏡』によると・・・

1192年(建久3年)7月20日、源頼朝のもとに一条能保からの伝令が到着し、7月12日、征夷大将軍に任じられたことが伝えられます。

一条能保は検非違使長官で頼朝の姉(妹?)の坊門姫の夫です。


7月26日、検非違使庁の中原景良と中原康定が征夷大将軍の辞令をもって鎌倉に到着。

頼朝は辞令受け取りの使者を三浦義澄に命じます。

甲冑姿の比企能員、和田宗実と家来10人を引き連れて鶴岡八幡宮に向かった義澄は、廟庭に並んで立つ衣冠姿の二人から辞令を受け取ったのだといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

「征夷大将軍」とは・・・

征夷大将軍には戦時下における司法権が与えられ、天皇の詔をいただくことなく自らの判断で司法権を行使することができました。

古代、出征する将軍には、全権を委任するという印である「節刀」(せっとう)が授けられたといいます。

つまり、征夷大将軍の地位にある間は天皇の代理人であり独裁者になれるということ。

ただ、征夷大将軍の「征夷」とは、中央政権からみて東方や北方の人々(蝦夷)を征討するという意味。

すでに奥州藤原氏を滅ぼした頼朝にとっては必要のない官職という見方もありますが、鎌倉政権のトップに立つ頼朝にとっては「大将軍」という称号が必要だったのではないでしょうか。



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