頼朝は、1199年(建久10年)に53歳で亡くなりました。
その死因は不明ですが、『吾妻鏡』の1212年(建暦2年)2月28日条によると・・・
1198年(建久9年)、稲毛重成が相模川に橋を新造します。
亡き妻の供養のためだったといいます(重成の妻は北条政子の妹でした。)。
頼朝はその橋供養に出席しますが、その帰途に落馬し、間もなく亡くなったのだといいます。
※『吾妻鏡』は、1196年(建久7年)から頼朝が亡くなるまでの記事を欠いていることから、頼朝の死因についての詳しいことは不明。
(茅ヶ崎市)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
源頼朝は、1147年(久安3年)、尾張国で誕生したといわれています。
父は河内源氏の棟梁・源義朝。
三男でしたが母の家柄から、誕生時から嫡子として育てられたようです。
母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘で由良御前。
(名古屋市誓願寺)
1159年(平治元年)の平治の乱で平清盛に敗れ、伊豆国へ流されますが、20年後の1180年(治承4年)、源氏再興の挙兵をして鎌倉を本拠としました。
(伊豆の国市:源頼朝配流地)
1185年(元暦2年)、平氏を壇ノ浦に滅ぼし、1189年(文治5年)には奥州藤原氏を滅ぼして全国制覇を成し遂げました。
1192年(建久3年)には征夷大将軍に任じられています。
(富士宮市)
しかし、1193年(建久4年)、富士裾野の巻狩りで起きた曽我兄弟の仇討ち事件は、頼朝の命を狙ったものだったという噂があります。
(奈良市)
1195年(建久6年)の上洛は、東大寺大仏殿の落慶供養のためという事ですが、真の目的は娘の大姫を入内させることだったともいいます。
その翌年から『吾妻鏡』は欠落。
流人で兵も持たない頼朝を挙兵に導いたのは坂東武士。
何のために頼朝を担ぎ上げたのか・・・
その政策が坂東武士の望むものと違う方向へと変化していたとしたら・・・
頼朝は暗殺されたという説もあり得るのかもしれません・・・。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
1200年(正治2年)正月13日、頼朝の一周忌が法華堂で営まれ、北条政子が自らの髪の毛を除髪して刺繍したという「梵字の曼荼羅」が飾られたといいます。
頼朝と政子が崇敬した伊豆山神社には、北条政子の頭髪曼荼羅が伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(鎌倉市)
源頼朝墓の下にある白旗神社では、1月13日に例祭が行われ、頼朝の遺徳を讃える祝詞が奏されます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆