時頼の父は北条時氏、母は松下禅尼(1227年(嘉禄3年)5月14日誕生)。
1246年(寛元4年)、兄経時の跡を継いで五代執権となった時頼は、反執権勢力を一掃するため、前将軍の藤原頼経を追放します(宮騒動)。
翌1247年(宝治元年)には、有力御家人の三浦泰村を滅ぼし、得宗専制政治を確立しました(宝治合戦)。
1249年(建長元年)、裁判の迅速化を図るため評定衆の下に「引付」(ひきつけ)を設置。
1252年(建長4年)には、将軍藤原頼嗣を廃し、後嵯峨天皇の皇子・宗尊親王を将軍に迎えました。
国宝の梵鐘は、1255年(建長7年)、物部重光によって鋳造されたもので、大旦那は時頼、撰文は開山の蘭渓道隆。
時頼は、1256年(康元元年)11月22日に執権を辞し、翌日には、最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家します(法名は「覚了房道崇」)。
執権職は、極楽寺流(赤橋流)の北条長時に譲りますが、嫡男の時宗が成長するまでの間の中継ぎに過ぎなかったことから、その実権は時頼が握り続け、「最明寺入道」と呼ばれていました。
出家後の時頼には廻国伝説が残されています(「鉢の木」)。
出家からちょうど7年後の1263年(弘長3年)11月22日、最明寺で亡くなりました(37歳)。
北条時頼の墓(明月院)
『吾妻鏡』は、時頼のことを「平生から武道をもって君を助け、仁義を施して民を憐れみ、天道の理にかない、人望があった」 と評しています。
さらに、臨終に際しては「手には定印(じょういん)を結び、辞世の頌(じゅ)を唱えて即身成仏のめでたいしるしを示したことは、神仏の再誕である」 と記しています。
また、吉田兼好はその随筆『徒然草』で時頼の質素倹約の様子を伝えています(母松下禅尼の教え)。