『吾妻鏡』によれば、赤痢を患っていたといいます。
執権の職は一族の北条長時に譲られ、翌日最明寺で蘭渓道隆を戒師として出家します。
以後、時頼は「最明寺入道」と呼ばれました。
明月院の境内にあります。
ここには時頼が建てた最明寺があったといいます。
時頼の隠居所でした。
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時頼は出家して隠居した後も政治の実権を握り続けます。
朝廷でいう「院政」といった感じなのでしょうか・・・。
※「出家」というのは「引退」を意味するものではなく、「遁世」(とんせ)というものを経ることによって初めて俗世から退くということになるのだそうです。
時頼の時代(執権時代も含めて)には、「深秘の御沙汰」と呼ばれる秘密会議が頻繁に開かれています。
この会議は、北条氏一族や側近の有力者を自邸に招集して開かれるものですが、重要政務の決定がなされていました。
そして、「深秘の御沙汰」による重要政務の決定は、執権・連署・評定衆の政治制度(合議制による政治)を骨抜きにし、北条氏嫡流家である得宗による専制体制の確立へとつながっていきます。
時頼の隠居政治は、執権政治を「合議制」によるものから、「得宗による独裁的な政治」へと変化させたということになるのかもしれません。
1263年(弘長3年)11月22日、37歳で亡くなりました。
『吾妻鏡』には、坐禅をくみながら臨終をむかえたたことが記されています。
時頼は、禅宗に帰依し、蘭渓道隆や兀菴普寧などの名僧を迎えて熱心に参禅していたといいます。