別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年6月14日火曜日

鎌倉と鎌倉新仏教

鎌倉新仏教


鎌倉時代には、それまでの「旧仏教」に対し、「鎌倉新仏教」と呼ばれる新たな仏教が起こります。


一般的に「鎌倉新仏教」というのは、以下の六宗派を指しています。

浄土宗(開祖:法然)
浄土真宗(開祖:親鸞)
時宗(開祖:一遍)
臨済宗(開祖:栄西)
曹洞宗(開祖:道元)
日蓮宗(開祖:日蓮)


浄土宗の開祖法然は、平安時代末に京都で活躍しました。したがって浄土宗は厳密にいうと平安時代の仏教ということになります。

光明寺
浄土宗の本山。四代執権北条経時によって建立されました。
鎌倉四大寺の一つです。


浄土真宗の開祖親鸞は、北条泰時によって鎌倉へ招かれ、北条政子の十三回忌を明王院で行うための一切経の校合作業に参加したといいます。

成福寺
鎌倉で唯一の浄土真宗の寺です。
三代執権北条泰時の子泰次が開きました。
泰次は親鸞が鎌倉に招かれたときに弟子となり、
「成仏」の名をもらったといいます。


時宗の開祖一遍は、1282年(弘安5年)、巨福呂坂から鎌倉に入ろうとして八代執権北条時宗に阻止されたことで知られています。

光照寺はその法難跡とされ、片瀬には一遍の地蔵堂跡があります。

一遍上人地蔵堂跡
北条時宗に鎌倉入りを阻止された一遍は、
藤沢の片瀬で布教をはじめました。


曹洞宗開祖の道元は、1247年(宝治元年)、五代執権北条時頼の招きで鎌倉に入りますが、時頼の寺院建立の要請を断って永平寺に帰ったといわれています。

道元鎌倉御行化顕彰碑
鶴岡八幡宮の西側の馬場小路には、
「只管打坐」と刻まれた碑が建てられています。


日蓮宗開祖の日蓮は、長く鎌倉で布教活動を続け、1260年(文応元年)、『立正安国論』を五代執権北条時頼に提出しています。

日蓮の辻説法跡
日蓮は幕府に近い小町大路で布教活動をしました。


しかし、これらの宗派は鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』には登場しません。

法然は平安時代ですし、一遍は『吾妻鏡』が終了したあとの活躍ですので記載がないのは当然かもしれませんが・・・。

親鸞、道元、日蓮の記載がないのは、やはり『吾妻鏡』は、幕府の公的文書だからでしょうか?

それともこの3名は、時代(政治)を批判し、あるいは、権力を嫌った宗教家だったからでしょうか?



ということで、『吾妻鏡』に記載されているのは、臨済宗開祖の栄西だけです。

が・・・、栄西は禅僧としてより天台の祈祷僧としての活躍がほとんどだったようです。

臨済宗は、建長寺を開いた蘭渓道隆が純粋禅をもたらしたことによって発展を始めます。

建長寺
五代執権北条時頼によって建立され、開山には蘭渓道隆が迎えられました。
我が国初の「禅専門道場」です。


平安時代までの旧仏教は、「貴族のための仏教」という性格が強かったのですが、「鎌倉新仏教」は、「武士」や「庶民」の間に広がっていきました。


鎌倉で発展した仏教にはもう一つ叡尊律宗があります。叡尊は1262年(弘長2年)、北条実時の招きで鎌倉に下向しました。

叡尊の下向によって鎌倉での律宗の基盤が固められます。

叡尊は清涼寺ヶ谷の釈迦堂で説法を行い極楽寺開基の北条重時などが聴聞しています。

※叡尊の記事も『吾妻鏡』にはありません。

極楽寺
叡尊の弟子忍性によって開かれた寺です。
忍性はここを拠点に律の布教と慈善救済事業に取り組んでいます。

「鎌倉新仏教」の台頭によって、それまでの「旧仏教」(天台宗真言宗)も変革をみせ、現在の仏教宗派の原型ができたのも鎌倉時代といわれています。


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鎌倉新仏教

鎌倉手帳


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