別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2025年12月17日水曜日

鎌倉検定 和田義盛の滅亡~和田合戦~


【問】
1213年(建保元)、北条義時の挑発によって兵を挙げ、一族とともに由比ヶ浜で滅亡した人物はだれか。

(第19回3級)



1213年(建暦3年)に起こったのは和田合戦

この年の2月の泉親衡の謀反で、和田義盛の甥胤長が処罰されたことで、義盛と北条義時との関係が悪化。

義盛は三浦義村や横山氏を味方につけて、5月2日、北条氏打倒の兵を挙げますが・・・

義村に裏切られるなど兵力不足の義盛は、源実朝を擁して兵を集めた義時に敗れ、5月3日、由比ヶ浜で最期を遂げました。

由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。


問題には「北条義時に挑発よって兵を挙げ」と書かれています。

義時は義盛の甥が泉親衡の謀反に関わっていたのを機に挑発を始めたようですが・・・

いつごろから義盛を滅ぼそうと考えていたのでしょう?



『吾妻鏡』によると・・・

和田合戦が起こる2年半ほど前の1210年(承元4年)11月21日明け方、駿河国の建穂寺の鎮守馬鳴大明神から酉年(2013年)に戦があるというお告げがあったそうです。

同日、源実朝も夢の中でお告げを聞いたのだとか。

この前年の5月、義盛は上総国司(上総介)への任官を望みますが、翌年6月、上総国司に任命されたのは藤原秀康でした。

建穂寺の馬鳴大明神の予告は、それから5ヶ月後。

義盛が上総国司任官を望んだのは、義時に対抗できる地位が欲しかったからといわれていますが、

『吾妻鏡』の記述は、 「義盛がこの頃から反乱を起こそうと考えていたこと」、

あるいは、

「義時がこの頃から義盛を滅ぼそうと考えていたこと」

を伝えているのかもしれません。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆



泉親衡(和泉小次郎親衡)は、二代将軍源頼家の遺児千寿丸を擁立し、北条義時を討とうと企て、和田合戦のきっかけを作った武将ですが・・・

京の刀工・三条宗近が祇園社(現在の八坂神社)に納めた長刀を懇望して愛用していたのだといいます。

その長刀は、祇園祭の前祭巡行の先頭を行く長刀鉾に飾られるようになりました。

そのため、長刀鉾の天王台には、小舟を肩に担ぎ大長刀を持った和泉小次郎親衡(泉親衡)の像が置かれています。



和田合戦


鎌倉検定


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鎌倉 初詣情報


鎌倉新年のイベント


鎌倉江の島七福神



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2026 曽我梅林の梅まつり




約3万5000本の梅が植えられている曽我梅林の梅は、例年2月に見ごろを迎えます。

霊峰富士と箱根の山を背景に白布を敷きつめたような景色が広がります。

毎年、梅まつりが開催されていますが2026年は・・・

2月7日(土)~3月1日(日)の予定。



曽我梅林


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曽我梅林には
美味しいものがある!


梅の香うどん

杵つき餅

とん汁

生絞りみかんジュース

浅漬け大根

小田原アイス工房



曽我梅林


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吾妻山:菜の花

あたみ桜


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2025年12月16日火曜日

鎌倉検定 島津忠久~源頼朝の御落胤?~


【問】
鎌倉時代に、将軍源頼朝と御家人島津忠久という関係で結ばれ、800年以上を経た現在でも市民有志の交流が続くなど歴史的な縁が深く、また両市共に美しい海岸線を有しているなどの地理的特徴や、国際観光都市として発展しているなど多くの共通点があることから、2023年(令和5)に鎌倉市と文化・観光交流協定を締結した都市はどこか。

(第19回2級)



2023年(令和5年)12月26日、鎌倉市は鹿児島市と文化・観光交流協定を締結しています。


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島津忠久は、薩摩国を本拠地とした島津氏の祖。

父は惟宗広言で、母は比企尼の長女丹後内侍ですが、源頼朝の御落胤という説が・・・


住吉大社誕生石


伝説によると・・・

源頼朝に仕えていた丹後局が頼朝の子を身籠もると、怒った北条政子畠山重忠に殺すよう命じます。

重忠は家臣の本多次郎近常(親恒)に命じて丹後局を由比ヶ浜に誘い出しますが、殺すことはできず、身代わりを立てて逃がしたのだとか。

そして、丹後局は、摂津国住吉に辿り着き、無数の狐火に導かれて住吉大社に至ったのだといいます。


住吉大社誕生石

社頭で産気づいた丹後局は、傍らの大石を抱きながら男児を出産。

のちに頼朝は、その子に薩摩・大隅二か国を与えます。

それが島津氏の祖・島津忠久なのだとか。

忠久の「忠」は、畠山重忠の一字を与えられたのだとも伝えられています。


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茅ヶ崎にはこんな伝説も。

(茅ヶ崎市)

懐嶋山の碑は、源頼朝と丹後局との間に生まれたという島津忠久の胎盤が埋められたという場所に建てられています。

「えな塚」(胞衣塚)と呼ばれてきました。

伝説によると・・・

丹後局が自分の子を身籠ったことを北条政子に知られた頼朝は、比企能員に命じて丹後局を大庭景能邸に預けました。

そして、丹後局は頼朝が建てた桜屋敷に移って男子を出産。

三郎と名付けられたそうです。

7歳になった三郎は1185年(文治元年)6月15日、鶴岡八幡宮で頼朝と対面。

そのとき「忠久」と名乗ったのだとか。


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鎌倉の源頼朝墓は、江戸時代に島津忠久の子孫・重豪が建てたものと伝えられています。

重豪は、反感を抱いていた徳川幕府に対し、頼朝の墓を建てることで、その「家柄」を示したともいわれています。

頼朝墓の東の山裾には、重豪が頼朝墓とともに整備した島津忠久の墓があります。




鎌倉検定


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2025年12月15日月曜日

建久2年の大火と鶴岡八幡宮の再建~御鎮座記念祭 御神楽~




鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が京都の石清水八幡宮を勧請して創建した由比若宮に始まります。

1180年(治承4年)、鎌倉に入った源頼朝は、由比若宮を小林郷に遷して武家の都の中心に据えました。

翌年には仮宮を立て直し、新造の正殿に御神体が納められています。

1182年(養和2年)には参道の若宮大路も整備されました。

静御前が舞い、流鏑馬が行われ、頼朝の母由良御前の供養のための五重塔が建てられた鶴岡八幡宮でしたが・・・


鶴岡八幡宮


1191年(建久2年)3月4日、小町大路で火事が発生。

強風にあおられた火は、北条義時、大内惟義、比企朝宗、佐々木盛綱、一品房昌寛、仁田忠常、工藤行光、佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼き、鶴岡八幡宮五重塔に燃え移ります。

この火事により鶴岡八幡宮は悉く灰燼に帰してしまいました。

3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を見た頼朝は涙を流したといいますが、8日には再建工事に着手します。

そして、若宮再建とともに上宮(本宮)を創建し、11月21日に遷宮が行われました(改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。)。

上宮の建設は、火事による被害を防ぐためだったと考えられています。



御鎮座記念祭

毎年12月16日に行われている「御鎮座記念祭」(御神楽)は、遷宮の際に行われた儀式を再現したものです。

頼朝は、遷宮の日に「宮人曲」を唄わせるため、京都から雅楽家の多好方を招いていました。

好方が「宮人曲」を唄うと、神が感応するほどのめでたい出来事の前ぶれだとして、頼朝も感激したのだといいます。



鶴岡八幡宮

御神楽


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初詣:鶴岡八幡宮


神楽始式
1月1日

御判神事
1月1日~7日

手斧始式
1月4日

除魔神事
1月5日

左義長
1月15日

鶴岡厄除大祭
1月30日~2月1日


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吾妻山 菜の花ウォッチング2026 ~富士と菜の花が待っている!~




二宮町の吾妻山には6万株の早咲きの菜の花が植えられています。

「吾妻山 菜の花ウォッチング」は、菜の花の開花期にあわせて開催されるイベント。

2026年の開催は・・・

1月10日(土)~2月15日(日)

2026年もデジタルスタンプラリー、レシートラリーを実施。

駅からハイキングも同時開催。

曽我兄弟の菩提寺知足寺と、源頼朝が信仰した相模国二之宮の川勾神社では、雛飾り展が開催されます。




吾妻山は『関東の富士見百景』に選ばれています。

登るのはきついですが、頑張って登り切れば雄大な富士の景色が待ってます。

富士の両側には箱根と丹沢。

相模湾・大島・初島・江の島・三浦半島を見渡すこともできます。



吾妻山 菜の花


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


あたみ桜


鶴岡八幡宮の正月ぼたん


曽我梅林


松田町の河津桜


頼朝桜まつり~鋸南町~


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