別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年6月21日火曜日

見ごろのあじさい散策路!鎌倉:長谷寺2022/06/21


長谷寺の発表によると、あじさい散策路は6月17日から見ごろを迎えたようです。

ピークの時は、あと1週間は続くと思います。









アジサイシーズンには、たくさんの鉢植えアジサイが置かれています。

あじさい散策路に入らなくても十分楽しめます。





ハナショウブ

ハナショウブは、だいぶ少なくなりました。



ハスが開花しそうです。




沙羅双樹(ナツツバキ)は、朝開花して夕方には落ちてしまう一日花。

妙智池の畔に植えられています。





長谷寺のアジサイ


長谷寺アジサイ物語
観音山霊験記


本尊造立1300年
長谷観音の伝説

長谷寺







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉アジサイの名所
鎌倉のアジサイ


江ノ電でアジサイ

江ノ電とアジサイの風景



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承久の乱の首謀者の一人藤原範茂の墓




藤原範茂は、後鳥羽上皇に仕えた公卿。

承久の乱後に捕らえられ、鎌倉へ護送される途中の足柄山の麓で最期を遂げました。

範茂史跡公園の宝篋印塔は、範茂の墓と伝えられています。




承久記絵巻







承久の乱


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北条政子の言葉~承久の乱~

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源頼朝!東大寺大仏殿の落慶供養に参列。


1180年(治承4年)、東大寺は平重衡の南都焼討によって灰燼に帰してしまいます。

翌年から重源を大勧進として進められた再建は、1185年(元暦2年)に大仏の鋳造が終了し、1195年(建久6年)に大仏殿の落慶供養が執り行われました。

源頼朝も参列しています。

東大寺大仏殿
(大仏殿)


『吾妻鏡』によると、2月14日午前10時頃、頼朝は上洛のため鎌倉を出発。

妻の北条政子、嫡男頼家、長女大姫を伴っていました。

先陣は鎌倉武士の鑑と言われた畠山重忠


3月4日、近江国の鏡の宿を出発し、夕刻、六波羅の屋敷に到着。


3月6日、大内惟義を六条の左女牛若宮に遣わし、神馬(黒)を奉納。


3月9日、網代車(牛車)に乗って石清水八幡宮左女牛若宮の臨時祭に参列。



若宮八幡宮
(左女牛若宮)

石清水八幡宮



3月10日、南都に到着。

石清水八幡宮から直接向かったようです。

3月11日、東大寺に馬千頭、米一万石、黄金千両、上絹千疋(二千反)を献上。

そして3月12日は、東大寺大仏殿落慶供養の日。

朝方は雨で晴れましたが、午後になって雨がひどく降り始めました。

地震もあったようです。


東大寺大仏殿

創建当初の大仏殿は現在のものより大きく、東西には100メートルに達する七重塔が配されていました。

頼朝が参列したときの大仏殿は創建当初のものと同じ大きさだったといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

3月13日、頼朝は宋の工人で大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した陳和卿に会うことを望みますが、和卿は「多くの人の血を流した頼朝」に会うこと拒否したそうです。

それでも頼朝は、奥州征伐のとき着用していた甲冑・鞍つきの馬三頭・金銀等を褒美として贈ります。

しかし、和卿はその褒美もほとんど突き返し、甲冑と鞍だけをもらい、甲冑は東大寺造営の釘料として、鞍は転害門で行われる「手掻会」(てがいえ)の祭典のために東大寺に納めてしまったのだとか・・・。


転害門

転害門(てがいもん)は、1180年(治承4年)の平重衡の兵火、1567年(永禄10年)の松永久秀の兵火にも焼け残った貴重な建物で、天平時代の東大寺の伽藍建築を想像できる唯一の遺構です。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

東大寺
https://www.yoritomo-japan.com/nara-kyoto/todaiji/todaiji.htm






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鎌倉との繋がりを求めて。
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2022年6月20日月曜日

大姫の入内~叶わなかった頼朝の夢~





1195年(建久6年)、源頼朝は、妻の政子・嫡男の頼家・長女の大姫を伴って上洛します。

南都東大寺大仏殿落慶供養に出席するための上洛ですが、大姫を後鳥羽天皇の妃にすることが真の目的だったともいわれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~大姫と義高~


時代は遡りますが、1183年(寿永2年)、頼朝と対立していた木曽義仲は、子の義高を人質として鎌倉に送り、頼朝と和解をします。

このとき、頼朝の長女大姫義高の婚儀も整っていたといいます。

しかし、間もなく頼朝と義仲の関係は破れ、翌年、頼朝は義仲を攻めて敗死させ、義高も誅殺しました。


(狭山市)

清水八幡宮は木曽義高を祀る神社。


木曽塚
(鎌倉:常楽寺)

常楽寺の裏山にある木曽塚は、木曽義高の首塚と伝えられています。


義高によくなついていた大姫の受けた衝撃は大きく、水も飲めないほどに衰弱してしまったといいます。

その後も大姫の心が癒されることはありませんでした。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


~大姫の入内問題と九条兼実の失脚~


1194年(建久5年)、頼朝の妹婿の一条能保の子高能が鎌倉に下ってきました。

この頃の大姫は病気も小康状態を保っていたそうです。

高能との縁談をすすめられた大姫は、これを強く拒絶します。

誰の発案で大姫と高能の縁談が持ち上がったかは分かりませんが、頼朝は、この時にはまだ大姫の入内を考えていなかったのでしょうか?

そして、上洛の時を迎えます。

大姫は、当時17歳前後ではなかったかといわれています。


頼朝は、これまで関白九条兼実との協力体制を築き、朝廷と幕府の関係を円滑に運営してきました。

特に、後白河法皇亡き後、頼朝征夷大将軍に任ぜられたのは兼実の力によるものでした。

しかし、この度の上洛では、兼実と敵対関係にある丹後局と源通親に接近し、大姫の入内運動を行っています。

頼朝の支持が、兼実から丹後局と通親に移ったことは、兼実の失脚に繋がりました。

そして、1196年(建久7年)の政変では、兼実は関白を罷免され、弟の慈円も天台座主(延暦寺の貫主)の地位を奪われることになります。

この政変について頼朝も知っていたとする説があります。

兼実が関白を罷免された後、京都では、
「兼実邸に出入りする者は頼朝のお咎めを受ける」

という噂が流れたともいいます。

大姫入内を考えた頼朝、親幕派の兼実を裏切った頼朝・・・

やはり頼朝も貴族であって、東国武士の棟梁になりきることはできなかったのか・・・


そんな中の1197年(建久8年)7月14日、大姫はこの世を去ります。

おそらく20歳前後だったのでしょう。


(鎌倉)

岩船地蔵堂は、大姫の守り本尊を祀る堂と伝えられています。


(鎌倉:常楽寺)

常楽寺木曽塚の下にある姫宮塚は、北条泰時の娘の墓と伝えられてきました。

ただ、最近では大姫の墓ではないかとも・・・。



大姫


木曽義高の誅殺


東大寺大仏殿落慶供養


大姫入内の夢~大姫の死~


歴史めぐり源頼朝







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