別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年6月7日火曜日

上洛途上で父義朝の墓に立ち寄った頼朝


1190年(建久元年)10月25日、源頼朝は上洛の途上、尾張国野間庄の父義朝の墓に立ち寄ります。

荒れ果てた墓を想像していた頼朝は、立派な堂が建てられ、供養が行われていることに感激したといいます。

このとき、頼朝野間大坊(大御堂寺)の伽藍を整備し、地蔵菩薩を納めています。


(野間大坊)

1159年(平治元年)の平治の乱に敗れた義朝は、翌年(平治2年)正月3日、尾張国野間で家臣の長田忠致の裏切られ、入浴中に殺害されました。


(法山寺)

法山寺には、湯殿の跡が残されています。


野間大坊大門

野間大坊(大御堂寺)の大門は、頼朝が伽藍整備をしたときの建築物だと伝えられています。


野間大坊



上洛:権大納言・右近衛大将


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源頼朝の法住寺殿修造~後白河法皇の院御所の再建~


法住寺殿は、1161年(永暦2年)に建てられた後白河法皇の院御所。

広大な敷地に北殿上御所、北殿下御所、南殿の三御所が建てられ、1163年(長寛元年)には、平清盛に資材協力を命じて 南殿の北側に蓮華王院(三十三間堂)が建立されました。

※南殿が法皇の住居だったようです。

しかし、1183年(寿永2年)11月19日、法皇と対立した木曽義仲が南殿に放火して押し入ったことにより、法皇は六条西洞院の長講堂に移っています。

ただ、1191年(建久2年)10月1日の『吾妻鏡』には、木曽義仲の反乱軍が法住寺殿に乱入した記事は載せられていますが、火をかけたという記事はありません。

また、1185年(文治元年)の地震で崩れたり傾いたりしていたので、関東の処理として修理を加えたことが記されています。

義仲の襲撃によって被害は受けたものの、その程度は軽かったようです。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~頼朝の法住寺殿修造~

源頼朝上洛した翌年の1191年(建久2年)2月21日、法住寺殿の修造に取りかかります。

指揮担当者には、中原親能大江広元・昌寛の三名が選任されています。

そして、12月24日、中原親能と大江広元らの使いが京都から到着。

17日に後白河法皇が六条殿から法住寺殿へ移り、滞りなく作業が終了したことが報告されました。

一条能保の記録によると・・・

摂政九条兼実、右大将藤原頼実、新大納言藤原忠良、左大将九条良経、中納言藤原定能、右衛門督久我通親、中納言坊門親信、民部卿吉田經房、権中納言坊門泰通、別当一条能保、中納言平親宗、右衛門督藤原隆房、左宰相中将中御門実實教、大宮権大夫葉室光雅、藤宰相中将滋野井公時、左大弁藤原定長、三位中将藤原家房、左京大夫藤原季能、藤三位藤原雅隆、前宮内卿季経、六条三位経家、新宰相中将成経、頭中将実明朝臣、頭大蔵卿宗頼朝臣などが集まって御移徙之儀が行われたようです。

翌朝、中原親能大江広元には剣が下賜されています。

※一条能保は頼朝の姉妹坊門姫の夫。


12月29日には、民部卿吉田経房と二品局高階栄子の書面で、法住寺殿の修繕がとても美しく仕上がったことへの礼が述べられています。

※吉田経房は鎌倉幕府の初代関東申次職に就いた公卿。

※高階栄子は後白河法皇の寵愛を受けた丹後局。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~参考~

頼朝が法住寺殿の造営に着手した年、鎌倉では3月に鶴岡八幡宮や頼朝の御所が焼失する火災がありました(建久2年の大火)。

にもかかわらず、庶民に負担をかけないで法住寺殿鶴岡八幡宮を再建したことが素晴らしい事だと『吾妻鏡』は伝えています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

新しい法住寺殿に移った後白河法皇でしたが・・・

閏12月27日、病気に。

1192年(建久3年)2月4日、頼朝は大江広元を京都へ派遣。

自らは神仏に祈り、刀を石清水八幡宮に奉納するよう命じたのだといいます。

2月22日、入洛した広元からの使者により、法皇が危険な容態にあることが報告されます。

3月16日、京都からの飛脚が鎌倉に到着。

後白河法皇が3月13日に崩御されたとの知らせでした。

法皇は、大原の来迎院の本成房を呼び寄せ、念仏を70回唱え、阿弥陀印を結んで臨終の時を迎えたのだといいます(67歳)。


九条兼実の『玉葉』によると、法皇は法住寺殿に移って間もなく体調を崩します。

一時回復し、閏12月16日には六条殿へ御幸しますが、そこで再び体調を崩してしまったようです。


後白河天皇法住寺陵

後白河法皇が崩御すると、法住寺殿の一画に法華堂が建てられて法皇の御陵となりました。







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源頼朝の子・貞暁~仁和寺に入室させられた御落胤~


『吾妻鏡』によると、源頼朝には、常陸介藤時長の娘大進局との間に生まれた子がいました。

常陸介藤時長とは、伊達朝宗のこと。

源為義の娘を母としていることから頼朝とは縁戚関係にあったともいわれますが、定かなことは不明です。


大進局は、御所勤めをしていましたが、普段から頼朝と密通していました。

そして、1186年(文治2年)2月26日、長門江七景遠の浜の家で男子が誕生します。

のちの貞暁です。

しかし、北条政子の嫉妬によって、予定されていた出産後の儀式はとりやめとなり、貞暁を育てていた長門江太景国は、政子の不興をかったことから、貞暁とともに深沢の里あたりに隠れ住んだといいます。


1191年(建久2年)1月23日、頼朝は、政子の嫉妬が激しいため、大進局に京に近い伊勢国に所領を与えて上洛を促し、翌年5月19日、貞暁を仁和寺に入室させました。

このとき、頼朝は貞暁に守り刀を与えたそうです。

(大進局も京都に移り住んでいたものと思われます。)



仁和寺


その後、貞暁は高野山に登り、1231年(寛喜3年)2月22日亡くなりました。

(母に先だって亡くなったといいますが、大進局の没年は不明。)




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6・12義時・江間まつり~伊豆の国市:江間公園~





北条義時館跡(江間公園)で「第1回義時・江間祭り」が開催されます。

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で、源頼朝との仲を引き裂かれた八重姫が再婚した江間次郎役の俳優・芹澤興人さんがゲスト。

スペシャルトークショーのほか・・・

弓矢の飛距離を競う「未来の八重姫選手権」などが行われるようです。

ドラマで、八重姫は江間から北条館に向けて矢を放ちましたからなぁ~。



9時~16時
キッチンカー・テント物販

9時00分
開会

12時00分
フラダンス

12時15分
講談

12時30分
紙芝居(昔ばなしを楽しむ会)

12時45分
江戸芸住吉踊りかっぽれ道場

13時00分
未来の八重姫選手権

13時30分
正連寺こども園による出し物

14時00分
居合道(無双直伝英信流 静岡東部道場)

14時30分
未来の八重姫選手権決勝・表彰式

15時00分
芹澤興人スペシャルトークショー

16時00分
閉会













八重姫


源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~


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2022年6月6日月曜日

鶴岡八幡宮焼失!~「鎌倉殿の13人」では忘れられた重大事件~


大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、上洛→後白河法皇の崩御→征夷大将軍曽我兄弟の仇討ちと進んでいるようですが・・・

この間、鎌倉では重大な事件が起きています。

それは、武家の都のシンボル鶴岡八幡宮の焼失です。

御所も焼けています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆


『吾妻鏡』によると・・・


1191年(建久2年)3月3日、鶴岡八幡宮では法会があり、箱根の稚児10人が舞いました。

又、臨時祭では、馬長十騎、流鏑馬十六騎、相撲十六番が奉納され、源頼朝も参詣し、夕方には無事終了しました。

頼朝御所に戻った後も、供奉した御家人たちは侍所に残っていましたが、その中に広田次郎邦房という者がいました。

邦房は御家人たちの前でこう予言します。

「明日、鎌倉に大火災が起こり、若宮(鶴岡八幡宮)も御所もその難を逃れることはできないだろう」と。

しかし、誰も本気にはしませんでした。


ところが・・・

翌3月4日は、南風が強く吹き荒れ、午前2時頃、小町大路の辺りで失火がありました。

強風にあおられた火は、北条義時・大内惟義・比企朝宗・佐々木盛綱・一品房昌寛・仁田忠常・工藤行光・佐貫広綱など御家人10人の屋敷を焼きます。

さらに、火は鶴岡八幡宮流鏑馬馬場に建てられたばかりの五重塔に移り、御所・神殿・回廊・経所が悉く灰燼と化してしまいました。

供僧坊のいくつかも延焼を免れることはできなかったそうです。


前日の晩、広田次郎邦房が予言したとおりの大火となってしまいました。


頼朝は、午前4時頃、甘縄の安達邸に避難しています。





3月6日、焼失した鶴岡八幡宮を参拝して、頼朝は涙を流したといいますが、立ち直りは早く、8日には再建の工事にとりかかります。


7月28日、完成した新造の御所では「御移徒の儀」が行われ、頼朝は、安達邸から新亭に移っています。

そして、11月21日には、本宮(上宮)若宮の遷宮が行われました。

頼朝若宮再建とともに本宮を創建し、改めて石清水八幡宮の祭神を勧請しています。




遷宮の際に行われた儀式を再現したのが、毎年12月16日に行われる「御鎮座記念祭」(御神楽)です。



御鎮座記念祭




鶴岡八幡宮


源頼朝の五重塔








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