別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2022年6月3日金曜日

鎌倉アジサイ情報!極楽寺山門前2022/06/02







甘茶

本堂前で甘茶が咲いています。


アジサイ:極楽寺山門前


極楽寺








☆ ☆ ☆ ☆ ☆

鎌倉アジサイの名所
鎌倉のアジサイ


成就院のアジサイ

御霊神社のアジサイ


江ノ電でアジサイ

江ノ電とアジサイの風景



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2022年6月2日木曜日

源頼朝の上洛~権大納言・右近衛大将~


1180年(治承4年)に旗挙げし、1189年(文治5年)の奥州征伐によって藤原泰衡を滅ぼした源頼朝は、10年にも及ぶ戦乱の世に終止符をうちました。


思い起こせば、富士川の戦いでは、敗走する平氏を追って上洛をしようとした頼朝ですが、千葉常胤上総広常三浦義澄らの反対で上洛を断念します。


以来10年の時が経過していました。

それだけ奥州藤原氏の存在が大きかったのでしょう。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~ 上 洛 ~



奥州征伐によって背後の脅威を取り除いた頼朝は、1190年(建久元年)に上洛を果たします。

10月3日、一千余騎の精兵をひきつれ鎌倉を発った頼朝は、11月7日に入洛。

先陣は畠山重忠がつとめ、三騎ずつ並んだ随兵60組の後に、折烏帽子、紺青の水干袴に白のむかばきをはき、黒毛の名馬にまたがった頼朝が進みます。

後陣は千葉常胤がつとめ、先陣と同じく40組の騎馬武者が続いていました。

後白河法皇は、威風堂々とした頼朝の入京の様子を、賀茂の河原で見物したといいます。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆

~後白河法皇との会談~


11月9日、頼朝は六条殿(院御所)に参り、はじめて後白河法皇に謁見します。

何が話し合われたのかは定かではありませんが・・・、

義経逮捕の理由で保持してきた日本国総追捕使・総地頭の地位が、一般的な治安警察権の行使のために、あらためて頼朝に与えられたことは確かなことのようです。

(参考:守護・地頭の設置

しかし、頼朝が望んでいた征夷大将軍の地位は与えられませんでした。

ただ、代わりに権大納言に任じられ、11月20日には常置の武官としては最高の位置にある右近衛大将に任じられました。

これを受けた頼朝は、12月1日、盛大に拝賀の儀式を行いますが、12月4日には両職を辞し、単なる王朝の侍大将ではなく「武家の棟梁」であることを天下に示しています。

そして、12月14日には鎌倉へ帰っています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

九条兼実


この上洛で頼朝は、九条兼実とも会談をしています。

その中で次のように述べたといいます。

「いまの世は法皇が思うがままに天下の政治をとり、
天皇とても皇太子と変わりないありさま。
目下のところはいたしかたないが、
さいわいにあなたもお若くてまだ先が長い。
私にも運があれば、
法皇御万歳の後には天下の政を正しくする日がやってくるでしょう」


1192年(建久3年)、後白河法皇が崩御し、頼朝は念願の征夷大将軍に任じられています。





奈良京都

歴史めぐり源頼朝

源義経をめぐる京都







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特集!「鎌倉殿の13人」伊豆国編

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2022年5月31日火曜日

源頼朝が建立した永福寺




永福寺は、源頼朝平泉の寺院を模して建立したという幻の寺。






跡地に置かれているハスは、平泉中尊寺で800年の時を経て開花した古代ハス。

2019年(平成31年)、源頼朝が奥州藤原氏を滅ぼしたという過去を超え、友好の証として鎌倉市に5株が寄贈されました。



永福寺跡

中尊寺ハス


奥州平泉

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~

中尊寺


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2022年5月30日月曜日

藤原泰衡が源頼朝に出した手紙~奥州征伐~


藤原泰衡は奥州藤原氏の第四代の当主。

藤原秀衡の次男。

次男ですが嫡男として育てられたようです。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1187年(文治3年)10月29日、父の秀衡が亡くなります。

秀衡は、平泉に逃れていた源義経を主君として、源頼朝の攻撃に供えるように言い残したのだと伝えられていますが・・・

泰衡は、頼朝の圧力に屈し、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、自刃に追い込みます。

泰衡は、義経の首を頼朝に差し出せば、頼朝との「和平が可能」と考えていたのかもしれませんが・・・




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


1189年(文治5年)7月19日、頼朝は、泰衡を征伐するため、畠山重忠を先陣に総勢28万4千騎の大軍で鎌倉を出発。

8月11日、泰衡の異母兄国衡が守る陸奥国伊達郡阿津賀志山が頼朝軍に破られると、その報を受けた泰衡は、平泉館を焼き払い逃亡してしまいます。




☆ ☆ ☆ ☆ ☆


8月26日、泰衡は、頼朝に手紙を出しました。

その内容は・・・

「義経のことは、父秀衡が保護していたもので、私は全くその事の始まりがわかりません。

父の死後、ご命令のとおり義経を討ちました。

これは勲功というべきではないでしょうか。

そうであるのに、罪のないにも拘わらず、征伐されるというのはどういうことでしょう。

そのため、先祖代々の在所を去って、山林をさまよい、難儀しております。

陸奥・出羽の両国は、すでに沙汰されているのですから、泰衡についてはお許し頂き、御家人に列して頂きたいと思います。

さもなくば、死罪を減じていただき遠流にしてください。

もし御慈悲によって返答下さるのならば、比内郡辺りに置いてください。

その是非によっては帰還して参じたいと思います」

という助命嘆願でした。


頼朝は、これを受け容れず、比内郡内の探索を命じています。


そして、9月3日、泰衡は、比内郡贄柵で、郎党の河田次郎に殺され、清衡以来四代にわたって栄華を極めた奥州藤原氏が滅亡しました。

泰衡の首を持ってきた河田次郎は・・・

「先祖代々の恩を忘れて主人の首を刎ねるとは、八虐の罪にあたる」

として、斬罪に処せられています。



泰衡の首は、父祖の眠る中尊寺金色堂に納められました。

中尊寺の大池の「中尊寺ハス」は、泰衡の首桶から発見されたハスの種が発芽したものです。




奥州平泉

奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~


源義経

藤原秀衡


歴史めぐり源頼朝


中尊寺ハス








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