別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




okadoのブログは、『中世歴史めぐりyoritomo-japan』の別冊。
京都・奈良・平泉・鎌倉などの寺社・歴史・人物・伝説・文化・自然・花などの情報をお伝えします。


2021年8月25日水曜日

伊豆の流人源頼朝





平治の乱の敗北後、平清盛に捕えられた源頼朝は、1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国流罪となります。

伊豆に流された頼朝は罪人ですので、その社会的な地位は否定されていました。

したがって、所領を持つこと、家来を持つこと、伊豆国の外へ出ることなどができなかったようです。

しかし、様々な援助によって、生活には困らなかったようですし、乗馬や狩猟は自由だったといいます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

八重姫と千鶴丸

いつ頃の事なのかは定かではありませんが、伊豆国で流人生活を送っていた源頼朝は、監視役だった伊東祐親が大番役で在京のときに、祐親の娘八重姫と結ばれ、千鶴丸という男子を授かりますが・・・

京から戻ってそのことを知った祐親は、激怒して千鶴丸を殺害し、八重姫を江間小四郎に嫁がせ、さらに頼朝を殺そうと計画したそうです。

祐親の次男祐清からそのことを聞いた頼朝は走湯権現(伊豆山権現)に逃れて助かったのだと伝えられています。


(伊東市)

音無神社が鎮座する「おとなしの森」は、頼朝八重姫が逢瀬を重ねたという場所。


(伊東市)

日暮八幡神社は、頼朝が八重姫に会うために日暮れになるのを待ったという「ひぐらしの森」に鎮座します。


(伊東市)

祐親に殺された千鶴丸の遺体は、川を下って富戸の海岸に流れ着いたのだといいます。

千鶴丸は、産衣石の上に乗せられて着衣を乾かされた後、丁重に葬られたのだと伝えられています。


(伊東市)

富戸の三島神社には、千鶴丸が祀られています。


(伊東市)

最誓寺は、千鶴丸の菩提を弔うために江間小四郎と八重姫の発願により創建されたと伝えられています。


(熱海市)

古くは、伊豆山権現・走湯権現と称されていた伊豆山神社

祐親に殺されそうになった頼朝は、伊豆山神社に逃げ込んだのだと伝えられています。


(伊豆の国市)

頼朝のことを忘れられない八重姫は、頼朝のいる北条館を訪ねますが・・・

頼朝は北条時政の娘政子と結ばれていました。

悲しんだ八重姫は、真珠ヶ淵に入水したのだと伝えられています。

真珠院にある八重姫御堂には、八重姫の木像と供養塔が安置されています。



☆ ☆ ☆ ☆ ☆

工藤祐経が河津祐泰を殺害

1176年(安元2年)、頼朝を慰めるための狩猟が奥野の狩場(伊東市)で催されました。

その狩猟の後、伊東祐親の嫡男河津祐泰が工藤祐経に殺害されるという事件が起きました。

祐経は、所領を横領した祐親を狙ったそうですが、誤って祐泰を殺害してしまったのだと伝えられています。

殺された祐泰には十郎と五郎という子がありましたが、2人の母満江御前曽我祐信と再婚すると、祐信のもとで育てられ「曽我」を名乗ります。

のちの1193年(建久4年)、頼朝が催した富士裾野の巻狩りの際に、仇討を決行して見事に工藤祐経を討ち取った曽我兄弟がこの2人です。


河津祐泰の血塚
(伊東市)


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

怪僧文覚との出会い

1173年(承安3年)4月29日、後白河法皇神護寺再興の勧進を強行した文覚が伊豆国に流されてきて、頼朝が流されていた蛭ヶ小島に近い奈古谷に庵を結びます。

文覚は、頼朝に源氏再興の挙兵を促したのだと伝えられています。


(伊豆の国市)

毘沙門堂は、文覚が草庵を結んだ場所と伝えられています。


(伊豆の国市)

滝山不動明王は、頼朝文覚が祈願崇拝したことから旗挙不動明王とも呼ばれています。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

北条政子と結婚

北条政子は、北条時政の長女。

母は伊東祐親の娘とも言われますが、定かではありません。

頼朝と政子が結婚したのは、長女大姫が1178年(治承2年)に誕生していると考えられることから、その前年の1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。


(伊豆の国市)

北条時政邸の一部だったとされる場所に残された井戸。


(伊豆の国市)

北条氏が本貫地である伊豆北条に営んだ邸宅跡。

結婚後の頼朝と政子は、北条時政邸に住んでいたようです。


(伊豆の国市)

頼朝が流されていたという蛭ヶ小島には、頼朝と政子の像が建てられています。







☆ ☆ ☆ ☆ ☆

伊東で源頼朝伝説

源頼朝配流の地・北条氏発祥の地

北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~

伊豆・箱根

熱海と源頼朝の伝説


伊豆・箱根の二所詣

伊豆山神社

箱根神社

三嶋大社


源頼朝挙兵


歴史めぐり源頼朝

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2021年8月24日火曜日

北条政子が隠れ潜んでいた秋戸郷~熱海~




1180年(治承4年)8月17日、源頼朝が挙兵。

伊豆国の目代山木兼隆を討ち取った頼朝は、8月20日、相模国へと軍を進めます。

その時、北条政子大姫伊豆山権現の覚淵のところに身を寄せます。

8月24日、頼朝が石橋山の戦いに敗れると、覚淵は二人を秋戸郷に逃しました。

10月6日(7日とも)、頼朝が鎌倉入りするまで、二人はここで暮らしました。





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2021年8月23日月曜日

石橋山の先陣で討死した佐奈田与一義忠




1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の兵を挙げ、相模国へと進軍した源頼朝

8月23日には石橋山に布陣。

先陣を命じられたのは佐奈田与一義忠。

頼朝から「大庭景親俣野景久を討って手柄をたてよ」と命じられた与一は、郎党の文三とともに壮絶な死を遂げます。


☆ ☆ ☆ ☆ ☆

『源平盛衰記』によると・・・

与一は、「三浦義明の弟岡崎義実の嫡子佐奈田与一義忠、生年25、我と思わん者は組めや」

と叫ぶと15騎ばかりで駆け出した。

一方の平家方は、大庭景親、その弟俣野景久長尾定景曽我祐信山内経俊稲毛重成熊谷直実ら73騎。

豪雨の中、まず与一に近づいてきたのは岡部弥次郎。

俣野景久と思った与一は、組み伏せて首を討つが、景久ではなかったため首を谷間に投げ捨て前進を続ける。

そして、目当ての景久と出会った与一。

組み打ちを始めるが、2人ともに馬から落ち、上になり下になりの乱闘が続き、やっとのことで景久を組み伏せた与一だったが、首を取るため刀を抜こうとしても岡部の首を斬ったときの血糊で鞘が抜けない。

そうこうしているうちに景久の従弟の長尾定景に討たれてしまったのだという。

そのころ文三は、谷一つ隔てた峰で戦っていたが、稲毛重成に与一が討たれたことを知らされる。

重成は文三を助けてやろうと「逃げよ」と声をかけるが、文三は敵方に斬り込んで屈強の兵8人を斬り倒した後、討たれたのだという。



佐奈田霊社
(石橋山古戦場)

文三堂
(石橋山古戦場)



源頼朝挙兵

石橋山の戦い







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北条の里~頼朝・時政・政子めぐり~

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2021年8月22日日曜日

源頼朝の時代は猫ブームだったのかも。~平泉館の銀の猫~


1189年(文治5年)7月、藤原泰衡を討つため出陣した源頼朝は、8月22日、平泉館に到着します。

8月11日に主の藤原泰衡が火をかけて逃亡したため、跡形もない状況でしたが、東南の角に蔵が焼け残っていました。

葛西清重と小栗重成に調べさせると・・・

中には多くの財宝があったそうです。

銀造の猫も。




「銀の猫」と言えば・・・

1186年(文治2年)8月15日、東大寺復興費用の勧進のため奥州平泉へ向かう途中で鶴岡八幡宮に立ち寄った西行は、源頼朝御所に招かれて弓馬について語ります。

その翌日、西行は御所を辞しますが、その時、「銀の猫」を贈られています。

西行は、それを門の外で遊んでいた子どもたちに与えてしまったそうですが、

もしかすると、頼朝の時代にも「猫ブーム」が起こっていたのかも・・・


「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」

さらに、もしかすると、西行は「銀の猫」を子どもには与えず藤原秀衡への土産にしたのかも・・・



奥州平泉


藤原秀衡

源義経


奥州征伐~奥州藤原氏の滅亡~


歴史めぐり源頼朝







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