別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2012年3月13日火曜日

日蓮が避難した「お猿畠」~逗子:法性寺~

1254年(建長6年)、名越の松葉ヶ谷に草庵を結び、布教を続けてきた日蓮は、1260年(文応元年)7月16日、自らの著書『立正安国論』を北条時頼に提出します。

(参考:立正安国論~鎌倉と日蓮~

しかし、幕府には受け入れられず、しかも、その提出から約1ヶ月後の8月27日夜、松葉ヶ谷の草庵が焼き討ちされてしまいます(松葉ヶ谷法難)。

(参考:松葉ヶ谷法難・・・鎌倉:妙法寺


安国論寺の南面窟


草庵を焼き討ちされた日蓮を助けたのは、どこからともなく現れた白猿だったといいます。

安国論寺の裏山には、白猿に導かれて最初に避難したという「南面窟」が残されています。

そして、日蓮は、ここから「お猿畠」に避難します。


法性寺の山門


JR横須賀線の車窓からも見える法性寺の山門。

法性寺は、逗子市にある日蓮宗の寺で、草庵を焼き討ちされた日蓮が避難した地に建てられました。


山門の額


法性寺の山号は「猿畠山」。山門の額には、日蓮を「お猿畠」に導いたという白猿がいます。


本堂

奥の院へと続く石段横にも白猿

奥の院

日蓮が避難したという岩窟


白猿に導かれた日蓮は、「お猿畠」の岩窟に避難します。奥の院の左側に残されている岩窟です。

そのとき、白猿は日蓮に「お猿畠」の生姜を捧げたと伝えられています。そのことにちなんで、妙法寺では「厄除け生姜供養」が行われています。


日朗の廟所


奥の院の前には、日蓮の弟子日朗の廟所があります。

日朗は、日蓮に「お猿畠」に寺を建てるように言われたといいますが、寺を建てる前に亡くなってしまったそうです。


日朗の荼毘所(安国論寺


日朗の遺体は、松葉ヶ谷で荼毘に付されました。

「自分が最初に出家をし、黒髪を剃り落とした懐かしい松葉ヶ谷で荼毘に付してほしい」という遺言があったからだと伝えられています。


山王大権現


奥の院の上には山王大権現が祀られています。


山王大権現からの景色

名越切通の大切岸


奥の院の裏山は、鎌倉七口の一つ「名越切通」へと通じています。

奥の院の墓地からは、北条氏が鎌倉防衛のために築いたという「大切岸」がよく見えます。

(※近年の発掘調査では、「大切岸」は石切場の跡だということが判明したそうです。)


まんだら堂やぐら群


名越切通には、中世の埋葬施設と考えられる「まんだら堂やぐら群」があります。

150穴以上の「やぐら」が確認されている貴重な遺構です。

「まんだら堂やぐら群」は、日蓮宗関係の葬地だったともいわれています。



 日蓮
(池上本門寺)



鎌倉手帳
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