東大寺再興の勧進のため、陸奥に赴く途中、鎌倉で源頼朝に謁見した逸話が残る僧はだれか。
『吾妻鏡』によると、面会の折、源頼朝が西行に贈った銀の引き出物は何の動物を象ったものか。
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『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)8月15日、源頼朝は西行に面会しています。
西行像
西行は、平安時代から鎌倉時代にかけて活躍した僧。
俗名は、佐藤義清(のりきよ)。
その家系は藤原秀郷を祖とし、曾祖父の頃より「左衛門尉」であったことから「佐藤」を名乗るようになったとする説があります。
源頼朝に仕えた安達盛長や、源義経に仕えた佐藤継信・忠信兄弟が同族といわれています。
義清が誕生したのは、平清盛と同じ1118年(元永元年)。
鳥羽上皇の時代には、北面の武士として仕えました。
「北面」とは、白河法皇の時に院警固のための設置された制度で、弓馬の道に優れただけではなく、眉目秀麗で、詩歌管弦に堪能であることが条件とされていたそうです。
しかし、義清は、1140年(保延6年)、23歳で出家してしまいます。
『西行物語』は、出家の原因を親友の佐藤範康の死と伝えているようです。
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~弓馬道を教えてもらった頼朝~
『吾妻鏡』によると・・・
鶴岡八幡宮で流鏑馬が始められた年の前年8月15日、鶴岡八幡宮に参拝した源頼朝は、鳥居の辺りを徘徊している一人の老僧を見つけます。
梶原景季に名前を尋ねさせたところ、佐藤兵衛尉義清という元北面の武士で、今は西行と名乗っているとのことでした。
鶴岡八幡宮奉幣の後、頼朝は西行を御所に招き入れて、和歌や弓馬のことについて尋ねます・・・
しかし西行は、
「弓馬のことは、出家する前まではその流派を伝えていましたが、1137年(保延3年)に出家したときに、藤原秀郷以来九代の嫡流家に伝わった兵法は焼いてしまい、罪業の原因ともなりますので心にも留めず、忘れてしまいました。
詠歌については、花月に対して心が動いたときにただ31文字を作るだけで、深く理解しているわけではありません」
と答えたのだといいます。
それでも、頼朝が再三にわたって尋ねたので、弓馬のことは一晩に亘って語ったといいます。
頼朝は、藤原俊兼にその口述を記録させたそうです。
翌日の正午ごろ、西行は頼朝の御所を辞します。
頼朝は、このとき銀で作られた猫を西行に贈りますが、西行は、門の外で遊んでいた子どもたちに玩具として与えてしまったそうです。
西行は、東大寺復興費用の勧進のため奥州平泉へ向かう途中でした。
(※絵:「西行法師子供に銀猫を与ふるの図」)
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西行から弓馬道について聞いた頼朝は、翌1187年(文治3年)8月15日、鶴岡八幡宮で放生会を催します。
そして「流鏑馬」を奉納しました。
これが鶴岡八幡宮例大祭の起源となります。
鶴岡八幡宮例大祭は9月14日~16日。
最終日の16日には小笠原流流鏑馬が奉納されます。
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「きゝもせず 束稲やまのさくら花 よし野のほかに かゝるべしとは」
平泉を訪れた西行は束稲山の桜を見て、
「吉野の桜にも勝るとも劣らない」
と驚いたのだといいます。
中尊寺の東物見台に西行の歌碑が建てられています。
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