別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月27日土曜日

源頼家重病・・・家督相続の沙汰


1203年(建仁3年)8月27日、病床にあった二代将軍源頼家の容態が悪化したため、以下の譲与が発表されます。


関西38ヶ国の地頭職を弟の千幡(のちの実朝)

関東28ヶ国の地頭職と総守護職を長子一幡





『吾妻鏡』によれば・・・

頼家は、7月20日に急病になったといいます。

23日には、病状が重いため祈祷も行われていますが、占いによると「霊神の祟り」ということだったようです。

以後、度々頼家の容態が思わしくないことが記され、この日の沙汰となっています。


この沙汰に対して激怒したのが、一幡の外祖父で、頼家の乳母夫を務めた比企能員です。

(※一幡の母は、能員の娘若狭局です。)

源頼朝の乳母を務めた比企尼の養子で、頼朝からの信任も厚かった能員は、将軍家外戚として権勢をふるっていました。


『吾妻鏡』の9月2日条によれば・・・


能員は、娘若狭局を通じて病床の頼家に次のように伝えます。

「地頭職を弟の千幡にも譲るということは、権威が二つに分かれ、権力争いになることは疑いのないこと。

子(一幡)と弟(千幡)のことを考え、おだやかに計らったようだが、かえって国の乱れの基となる。

しかも、一幡の家督は、北条時政に奪われてしまうだろうから、時政を追討すべきだ」


これに驚いた頼家は、能員を病床に招いて、北条時政追討の許可を与えました。

しかし、この密談を北条政子が障子の陰から聞いていて、時政に通報します。

能員の企てを知った時政は先手を討って、能員を自邸に招きだし暗殺しました。

そして、比企討伐が行われ、比企一族は、一幡の小御所に立て籠もって防戦しますが、やがて屋敷に火をかけ、一幡を囲んで自害したそうです(比企氏の乱)。


一幡の袖塚
(妙本寺)


その後、頼家は・・・

伊豆修禅寺に幽閉され、翌年暗殺されています。


(伊豆市)


参考:源頼家の悲劇~比企氏の乱の真相は・・・~







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比企氏の乱

修禅寺

源実朝の暗殺


初代執権北条時政


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鎌倉殿の13人


二代執権北条義時


宿老13人の合議制


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