別冊『中世歴史めぐりyoritomo-japan』




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2011年8月16日火曜日

流鏑馬と河村義秀の逸話・・・鶴岡八幡宮

1190年(建久元年)8月の鶴岡八幡宮放生会は、この年より2日間に分けて行われています。

流鏑馬は、2日目の8月16日に行われました。




『吾妻鏡』によると・・・


この日の流鏑馬の射手のうち、具合が悪くなった者が出ました。


その時に大庭景義が・・・、

「1180年(治承4年)、石橋山で大庭景親に味方した河村三郎義秀は、囚人として景義が預かっております。

義秀は、弓馬の芸に優れた者です。

あの時に敵対した連中の殆どが許されましたが、義秀だけが深く沈んだままとなっております。このような時に召し出してみてはいかがでしょう?」

頼朝に申し上げました。


すると頼朝は・・・、

「その者は死罪に処すよう命じたはずである。
今、生きているというのは不思議な話だ。

しかしながら、神事であるので、早く召し出すように。
ただし、満足することができなければ、改めて死罪とする」

と命じ、義秀に流鏑馬を射させました。


頼朝が義秀の放った矢をみると、矢の長さは十三束、鏑は八寸もありました。


そこで頼朝は・・・、

「義秀は、弓矢の芸にうぬぼれて、景親に味方したことは、
その罪を考えると、今でもとんでもないことである。

その腕で、三種類の的を射るように。
失敗すれば、すぐに死刑を執行する」

と命じます。


義秀は、その弓矢の芸を披露します。
そして、三尺・手挟・八的などの難しい的を見事に射抜き、頼朝を感心させました。


後日(9月3日)・・・


大庭景義頼朝に、

「河村義秀は、打ち首にしましょうか?」

と申し上げます。


すると頼朝は、

「流鏑馬の褒美に許したのに、今さら何の罪にできるのだ」

と問います。


景義が申すには・・・

「義秀は、これまでは囚人でしたので景義が援助していましたが、
囚人でない者を助けようがありません。

このままでは餓死してしまうでしょう。
殺してあげた方が義秀にとってはよいのではないでしょうか」

とのことでした。


頼朝は、大笑いして、相模国河村郷の所領を安堵したといいます。


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(流鏑馬に残された逸話)

熊谷直実  ★諏訪盛澄  ★河村義秀

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鶴岡八幡宮の放生会と流鏑馬

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鶴岡八幡宮例大祭
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/hatiman-reisai.htm


浜降式

神幸祭

流鏑馬神事

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流鏑馬神事
https://www.yoritomo-japan.com/gyoji-maturi/yabusame.htm
鎌倉手帳
https://www.yoritomo-japan.com/kamakura.html


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