石橋山で大敗した源頼朝は、土肥の椙山に逃れた後、箱根権現の行実と永実を頼ります。
しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることがわかりました。
良暹という男、頼朝がまず血祭りに上げた山木兼隆の祈祷師をしていたといいます。
行実は・・・
「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけ、攻めてきたらいけないので、逃げた方がいい」
と進言します。
頼朝は、土肥実平らとともに土肥郷へ逃げました。
このとき、北条時政は、事の次第を他の源氏に伝えるため、甲斐国へ向かいますが・・・
今後、頼朝が何処へ落ち着くのかを見定めないと、他の源氏に知らせてもどうにもならないと考え、頼朝を追って土肥郷へ向かったそうです。
土肥郷は現在の湯河原町。
土肥実平の居館があった所で、城願寺は実平の菩提寺です。
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そして、1180年(治承4年)8月28日、
頼朝は、真鶴から海路安房へと舟出します。
舟は、土肥実平の命で、土肥の住人貞恒が用意しました。
この前日には、北条時政・北条義時・岡崎義実らも安房へ向けて出航しています。
そして、8月29日、頼朝は土肥実平とともに安房国の平北群猟島に舟を着け、先に到着していた北条時政らが迎えています。
源頼朝が安房に向けて舟出した浜と伝わっています。
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しかし、石橋山の戦いの敗北から頼朝の舟出までの間には、三浦義明の衣笠城が畠山重忠・河越重頼・江戸重長によって攻められ、義明が討死しました(衣笠合戦)。
(※子の義澄ら三浦一族は城を逃れ、海路安房へと向かい頼朝と合流しています。)
横須賀市の満昌寺にある義明の墓です。
満昌寺は、頼朝が義明の追善のために建立した寺です。
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~参考~
佐々木四兄弟は、石橋山の戦い後、頼朝の弟阿野全成に出会っています。
そして、全成は、佐々木四兄弟と一緒に渋谷重国に匿われています。
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(小田原市)
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