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2011年8月26日金曜日

源頼朝・・・真鶴から安房へ

『吾妻鏡』によれば・・・


石橋山で大敗した源頼朝は、土肥の椙山に逃れた後、箱根権現の行実と永実を頼ります。

しかし、行実と永実の弟智藏房良暹が、兄たちを裏切り、僧兵を集めて頼朝を襲おうとしていることがわかりました。

良暹という男、頼朝がまず血祭りに上げた山木兼隆の祈祷師をしていたといいます。

行実は・・・

「良暹を恐れることはないが、大庭景親がこれを聞きつけ、攻めてきたらいけないので、逃げた方がいい」

と進言します。


頼朝は、土肥実平らとともに土肥郷へ逃げました。

このとき、北条時政は、事の次第を他の源氏に伝えるため、甲斐国へ向かいますが・・・

今後、頼朝が何処へ落ち着くのかを見定めないと、他の源氏に知らせてもどうにもならないと考え、頼朝を追って土肥郷へ向かったそうです。


 城願寺

土肥郷は現在の湯河原町。

土肥実平の居館があった所で、城願寺実平の菩提寺です。


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そして、1180年(治承4年)8月28日、

頼朝は、真鶴から海路安房へと舟出します。

舟は、土肥実平の命で、土肥の住人貞恒が用意しました。

この前日には、北条時政北条義時岡崎義実らも安房へ向けて出航しています。

そして、8月29日、頼朝土肥実平とともに安房国の平北群猟島に舟を着け、先に到着していた北条時政らが迎えています。


 源頼朝船出の浜

源頼朝が安房に向けて舟出した浜と伝わっています。


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しかし、石橋山の戦いの敗北から頼朝の舟出までの間には、三浦義明衣笠城畠山重忠・河越重頼・江戸重長によって攻められ、義明が討死しました(衣笠合戦)。

(※子の義澄三浦一族は城を逃れ、海路安房へと向かい頼朝と合流しています。)


 三浦義明の墓

横須賀市の満昌寺にある義明の墓です。

満昌寺は、頼朝義明の追善のために建立した寺です。


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~参考~

佐々木四兄弟は、石橋山の戦い後、頼朝の弟阿野全成に出会っています。

そして、全成は、佐々木四兄弟と一緒に渋谷重国に匿われています。


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『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵

 源頼朝


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(小田原市)







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 源頼朝挙兵


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 歴史めぐり源頼朝


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