(藤沢市大庭)
大庭景親の居城だったと伝えられています。
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そもそも、「鎌倉氏」は、平良文を祖とする板東八平氏の一つといわれ、源頼義が平直方から鎌倉の地を譲り受けてからは、源氏に仕えてきました。
(藤沢市宮前)
板東八平氏の祖平良文が勧請したと伝えられる神社です。
良文の館がこの辺りにあったとされ、子孫の鎌倉権五郎景政も住んでいたといわれています。
のちに、景政の父景成が鎌倉に館を構えたことにより、「鎌倉氏」を名乗るようになったといわれています。
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鎌倉権五郎景政が、源義家に従った後三年の役で、右目を矢に討たれながらも奮戦したという伝説は知られているところです。
(鎌倉:坂ノ下)
鎌倉権五郎景政を祭神とし、景政の武勇伝から「目の神様」として親しまれています。
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「鎌倉氏」の一族である大庭氏も源義朝に仕え、保元の乱で活躍しています。
特に、大庭景義(景親の兄)は、源為朝の矢を足に受け重傷を負っています。
必中必殺の為朝の矢を受けて生き残ったのは景義一人ともいわれています。
(参考:六角ノ井)
大庭景義像
(神明大神宮)
景義は、大庭御厨の懐島郷(茅ヶ崎市)に館を構えました。
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1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵します。
大庭兄弟にとって、頼朝につくのか、清盛(平家)につくのかは重要な問題となりました。
しかし、兄弟の意見は分かれます。
「代々、源氏に仕えてきたからには、頼朝に味方する」
というのが兄景義でした。
一方の弟景親は、
「平家の厚恩に報いるため、やはり平家につく」
というものだったといいます。
こうして、石橋山の戦いは、兄弟が敵味方となって戦うことになります。
兄弟には、どちらか一方に馳せ参じるのではなく、両方の軍に分かれて、「いずれが勝利しても生き残ろう」という考えもあったのかもしれません。
ただ・・・
景親の運が悪かったところ・・・
それは、頼朝追討の総大将となってしまったところかもしれません。
それも率先して総大将の役目を頂いたのではなく「いきがかり上でそうなってしまった」という感じです。
石橋山の戦いで、景親は頼朝に大勝しますが、その後、頼朝が東国武士団を率いて鎌倉に入ると形勢は逆転してしまいます。
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『吾妻鏡』によれば・・・
1180年(治承4年)10月18日、景親は、平家に味方するため1000騎を率いて上洛しようとしますが、
頼朝軍20万騎が足柄峠を越えて行ったため、景親は前方を塞がれてしまいます。
仕方なく河村山に逃げ込んだということです。
そして、10月20日、頼朝追討のため東下してきた平維盛率いる平家軍は、富士川の戦いで敗走してしまいます。
10月23日、景親は、ついに頼朝に投降します。そして、上総介広常に預けられました後、10月26日、片瀬で処刑されました。
さて、兄の景義はというと、景親が投降した23日に所領が安堵され、さらに河村義秀の所領を賜っています。
明暗が分かれたということなのでしょうか・・・。
景義は、頼朝の新亭造営の奉行にも任じられています。
(参考:源頼朝の新亭造営~大倉幕府~)。
ところで・・・
景親が投降したとき、長尾定景や河村義秀といった武将も出頭しています。
長尾定景は、岡崎義実に預けられた後、許されています。
定景は、石橋山の戦いで義実の子佐奈田与一義忠を討った武将です。
しかし、毎日法華経を読経していた定景をみていた義実は、定景の首を斬ることはできず、頼朝に赦免を願ったといいます。
定景は、のちに源実朝を暗殺した公暁を討ち取ることになります。
戦国武将上杉謙信の祖ともいわれています(参考:久成寺)。
河村秀義は、景義に預けられた後、許されています。
頼朝は、景義に秀義を処刑するよう命じたといいますが、のちに行われた流鏑馬で頼朝に弓馬の技を披露したことで許されたといいます。
(参考:流鏑馬と河村秀義の逸話)
しかし・・・景親は、2日後には処刑されました。
景義も頼朝に助命を願ったと思いますが・・・
やはり、石橋山での敵の総大将ですから・・・
頼朝も許すわけにはいかなかったのでしょう。
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景義と景親には、俣野景久という弟がいます。
俣野郷を領していました。
景久は景親に従っていましたが、富士川の戦い後平家軍に合流し、加賀国で討死したと伝えられています。
横浜市戸塚区にある俣野観音堂には、景久ゆかりの十一面観音像が安置されています。
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(茅ヶ崎市)
源義家が創建したと伝えられています。
のちに大庭景義が社殿を修理し再興したそうです。
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『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
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(小田原市)