9月17日には千葉常胤が300騎を率いて参陣し、9月19日には隅田川辺まで陣を進めています。
この日、上総介広常が2万騎を率いて参陣しています。
9月27日には、頼朝の軍は2万7千騎になったといいます。
10月2日、千葉常胤、上総介広常とともに江戸川、隅田川を渡って武蔵国に入り進軍を続けます。このとき、頼朝の軍は、3万騎にも膨れあがっていたといいます。
そして、この日、豊島清元、葛西清重、足立遠元が参じています。
また、頼朝の乳母だった寒河尼が息子を連れて頼朝のもとを訪れています。頼朝はその子を小山宗朝と名付け近侍として召し抱えました。
のちの小山朝光です。
10月4日、長井の渡しに達すると、畠山重忠、河越重頼、江戸重長が参じます。
この3名は、衣笠城を攻め三浦義明を討死させた者たちですが、頼朝は前もって三浦一族に言い聞かせてあったので、お互いに目を合わすだけで列に加わったということです。
そして、相模国へ進軍します。
先鋒は畠山重忠、殿(しんがり)は千葉常胤でした。
こうして10月6日、頼朝は鎌倉入りを果たします。
このとき頼朝は、5万騎を動員できる体制を整えていたといいます。
この間、頼朝は、北条時政を甲斐国に派遣し、武田信義らとともに甲斐を攻略するよう命じています。
十王岩からの鎌倉
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~鎌倉入りを進言した千葉常胤~
『吾妻鏡』9月9日条によると・・・
頼朝に鎌倉入りを勧めたのは千葉常胤だったといいます。
常胤は、頼朝の遣わした安達盛長に、
「今の居所は要害の地でもなければ、源氏にゆかりのある地でもありません。速やかに相模国の鎌倉に行かれるべきです。
常胤が門客らを率いて、頼朝様をお迎えに参上します。」
といったといいます。
蓮乗院は材木座光明寺の支院です。
千葉常胤の守護仏といわれる阿弥陀如来像を本尊としています。
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~遅参を咎められた上総介広常~
『吾妻鏡』9月19日条によれば・・・
2万騎の兵を引き連れて頼朝のもとに参じた上総介広常は、場合によっては頼朝を討つつもりでいたといいます。
その昔、平将門は、俵の藤太秀郷が味方に駆けつけたのを聞いて、喜びのあまり、髪を結わずに烏帽子の中におし入れて秀郷に会ったといいます。
秀郷は、将門のその軽率な行動を見て「誅罰すべし」と思ったそうです。
その後、将門は秀郷に討たれています。
この故事と同じように、2万騎で参じれば、頼朝はさぞ喜ぶと思っていた広常でしたが・・・
頼朝は喜ぶどころか広常の遅参を咎めたといいます。
頼朝に高貴な相がなければ討とうと考えていた広常は、頼朝を「人の主人となるべき人物」として、穏やかに従うこととしたそうです。
(参考:暗殺された上総介広常)
上総介広常の屋敷は、朝夷奈切通の入口付近にあったといいます。
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(小田原市)