1180年(治承4年)8月24日、石橋山の戦いに敗れた源頼朝は、椙山の堀口という辺りに陣を構えたといいます。
追ってくる大庭景親の軍勢に対し、頼朝に供した武将はよく防戦します。
(JR湯河原駅前)
土肥実平は、湯河原・真鶴を本拠としていた武将。
石橋山の戦いに敗れた頼朝を助け、真鶴から安房に渡る手引きをしたと伝えられています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
~頼朝を探して
供するよう命じた北条時政~
供するよう命じた北条時政~
北条時政・宗時・義時の親子も景親の軍勢と戦っていましたが、戦いに疲れ峰を登れずにいたため、頼朝とは行動をともにはしてはいませんでした。
時政らに供をしていた武将は、「時政にお供していきたい」と申し出ますが、時政は、「早く頼朝を捜してお供をするように」と命じたといいます。
時政の命令に従った武将たちが、崖をよじり登っていくと、臥木の上に頼朝が立ち、傍らに土肥実平がいました。
~集まった武将を分散するよう
提案した土肥実平~
提案した土肥実平~
多くの者が集まってきたことで、頼朝は大変喜びますが・・・
土肥実平は、
「皆が集まったことは喜ぶべきことだが、
この大人数では、山中に隠れているのが難しい。
頼朝様一人であれば、この後、たとえ10日であろうと一月であろうと、
実平が計略を加えて隠すことができる」
と述べます。
しかし、
皆、「頼朝の供をしたい」といい、
頼朝自身もそうあってほしいと考えていたようでしたので、
実平は再度、
「今別れることは、のちの大幸である。
皆が命を全うし、今後の計画を巡らせば、恥を注ぐことができる」
と述べます。
こうして、皆が別れていきましたが、涙が眼を遮り道がよく見えなかったといいます。
湯河原の城願寺は、土肥実平の菩提寺です。
七騎堂には、頼朝が安房に向かうときに従った武将が祀られています。
安達盛長、岡崎義実、新開忠氏、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱、そして源頼朝。
~頼朝の数珠を探してきた飯田家義~
その後、頼朝を椙山に手引きした飯田家義が、頼朝が落とした数珠を持ってやってきます。
この数珠は、頼朝が普段から持ち歩いていたもので、狩りなどで相模国の武士達は皆この数珠を見知っていたといいます。
それを家義が探し出して持ってきてくれたので、頼朝は大いに喜びました。
家義は、頼朝の供を願い出ますが、土肥実平が先のように説得したため、泣きながら退去していったといいます。
(※飯田家義は、頼朝亡き後に起こった梶原景時の変で、上洛途中の景時を襲撃した人物の一人といわれています。)
(飯田城址)
~北条宗時の討死・工藤茂光の自害~
その頃、北条時政の嫡男宗時は、土肥山から桑原に降りて平井郷へ向かおうとする所を早川の辺りで伊東祐親の軍兵に囲まれ、小平井久重に討たれました。
工藤茂光は、怪我で動けなくなったため自害したそうです。
(静岡県田方郡函南町)
~頼朝を助けた梶原景時~
頼朝を追う大庭軍の中に、のちに頼朝の片腕ともなる梶原景時がいました。
景時は、頼朝の所在を知っていながら、「この山には人はいない」といって、大庭景親の手を曳いて傍らの山に上っていったといいます。
この間、頼朝は髷の中の正観音像を岩窟の中に置きます。
土肥実平がどうしてか尋ねると、
「景親ら平氏に首を討たれるときに、
この正観音像を見ると、源氏の将軍らくしくないと非難される」
という理由だったといいます。
(※頼朝が洞窟に置いた観音像は、のちに探し出され頼朝のところに戻ります。頼朝の持仏堂(法華堂)の本尊は、この観音像だったといいます。)
(参考:源頼朝の守り本尊~正(聖)観音像~ 梶原景時と石橋山の戦い)
~頼朝に弁当を届けた永実~
箱根権現の永実は、弁当を届けるために頼朝の陣へとやってきました。
(箱根権現別当の行実が、弟の永実に弁当を持たせたのでした。)
まず、夜になってから頼朝に合流していた北条時政に頼朝の所在を尋ねます。
しかし、時政は、
「頼朝様は、大庭景親の囲みを逃れることができなかった」
と答えます。
すると永実は、
「貴方は私の短慮を試されているようだ。
頼朝様が亡くなれば貴方は生きていないはず」
と問い返したといいます。
時政は大いに笑って、永実を頼朝のもとへ連れて行きました。
そして、永実は、持参した弁当を献上します。
頼朝も供の者も飢えきってたので皆喜びました。
土肥実平は頼朝に、
「世の中が落ち着いたならば、永実を箱根権現の別当にしてあげてください」
と申し上げると、頼朝はこれを承諾したといいます。
その後、頼朝は永実の案内で箱根に向かいます。
そして、箱根権現別当の行実邸は、参詣の民衆が集まるので、永実邸に入ります。
~三浦軍の撤退~
頼朝の援軍に駆けつけた三浦一族は、23日夜には酒匂川まで進軍していました。
しかし、酒匂川は洪水のため渡河することが出来ず、明け方を待っていましたが、合戦は既に頼朝の敗北に終わっていました。
そのため、やむを得ず、帰ることになります。
しかし、その帰路、畠山重忠軍に遭遇し合戦に及びます(小坪合戦)。
この合戦で、多々良重春(三浦義明の孫)と部下の石井五郎などが討たれています。
畠山重忠の部下も50名ほど殺されたといいます。
この間、上総広常の弟金田頼次が三浦軍に加わっています。
(※その後、三浦氏の居城衣笠城は、畠山重忠らによって攻められ、三浦義明が命を落としました。参考:石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死)
衣笠城へと帰る三浦軍と、大庭景親に動員された畠山軍が遭遇したのが由比ヶ浜。
飯島岬を越える小坪路(小坪切通)では、激戦が繰り広げられました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』にみる源頼朝の挙兵
源頼朝の挙兵・・・山木館襲撃
源頼朝挙兵の日
源頼朝相模国へ進軍~従った武将は・・・~
三浦一族の進発~石橋山の戦い~
源頼朝の敗戦~石橋山の戦い~
源頼朝を助けた武将たち~石橋山の戦い~
源頼朝・・・真鶴から安房へ
先陣を切って討死した佐奈田与一義忠~石橋山の戦い~
石橋山の戦いと衣笠合戦~三浦義明の討死~
渋谷重国と佐々木四兄弟~石橋山の戦い~
明暗が分かれた大庭兄弟(景親と景義)~石橋山の戦い~
梶原景時と石橋山の戦い
母の哀訴に命を救われた山内首藤経俊
法華経を読み続けた長尾定景~石橋山の戦い~
源頼朝大軍を率いて鎌倉入り
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(小田原市)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆