松原客館は、平安時代前期に、渤海の使節団(渤海使)を迎えるため越前国敦賀に建てられた迎賓・宿泊施設。
気比の松原付近にあったといわれています。
松原客館は、気比神宮の神官が管理していたともいわれることから、気比神宮近くにあったという説もあります。
928年(延長6年)に渤海は滅亡しますが、松原客館は渤海滅亡後も、宋の商人や官人の迎賓・宿泊施設として使用されていたようです。
紫式部の父・藤原為時は、その交渉相手として越前国司に選ばれたといわれています。
平安京の鴻臚館は、渤海使のために建てられた迎賓施設。
松原客館に滞在していた渤海使は、都からの使者に伴われ、深坂峠を越えて塩津浜から舟で琵琶湖を渡り、大津から鴻臚館に入りました。
822年(弘仁13年)に渤海国の国使が豊楽殿で打毬を行ったという記録が残されています。
『源氏物語』~桐壺巻~には・・・
桐壺帝が幼い光源氏を鴻臚館に滞在していた高麗人に人相占いさせている様子が描かれています。
気比の松原は、国の名勝に指定されている白砂青松の景勝地。
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