一条天皇の皇后宮・藤原定子は、1000年(長保2年)12月15日、平惟仲の屋敷で媄子内親王を出産した後、翌16に崩御。
藤原行成の『権記』によると・・・
23日、遺体は六波羅蜜寺に移され、27日に鳥辺野に葬られたのだといいます。
何故、六波羅蜜寺だったのかは分かりませんが、六波羅蜜寺は葬送地・鳥辺野の入口と言われる六道の辻にある寺。
六道の辻に捨てられた死体を供養するために、空也上人が建てた西光寺を始まりとしています。
鳥戸野陵は、定子の陵墓。
『栄花物語』によると、定子は、雪が降る中を黄金づくりの糸毛車(最上格の牛車)に乗せられて埋葬の地に到着。
定子の兄伊周は
「誰もみな 消え残るべき 身ならねど ゆき隠れぬる 君ぞ悲しき」
弟の隆家は
「白雪の 降りつむ野辺は 跡絶えて いづくをはかと 君をたづねむ」
同じく弟の隆円は
「故里に ゆきも帰らで 君ともに 同じ野辺にて やがて消えなむ」
と詠んでいます。
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