紫式部(むらさきしきぶ)は、平安時代中期の作家・歌人・官僚。
998年(長徳4年)頃、藤原宣孝と結婚しますが、わずか3年後の1001(長保3年)4月25日、宣孝は疫病のため卒去。
その現実を忘れるために物語を書き始めた紫式部。
それが評判となり、一条天皇の中宮彰子(藤原道長の娘)に仕えるようになります。
そして、宮仕えをしながら完成させたのが『源氏物語』。
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「源氏の間」は石山寺の本堂の相の間にある部屋。
1004年(寛弘元年)8月15日、石山寺に参籠中だった紫式部は、中秋の名月が琵琶湖に映る美しい景色を見て、この部屋で『源氏物語』を書き始めたのだといいます。
『源氏物語』の冒頭は「桐壺」の巻ですが・・・
この日、紫式部は「須磨」「明石」の巻の一節を書きとどめたのだとか・・・
在原行平(光源氏のモデルの一人)が蟄居を余儀なくされた須磨での日々を重ねあわせながら、「須磨」「明石」の両巻から書き始めたのだといいます。
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紫式部の供養塔
宝篋印塔の笠を3つ重ねた層塔(三重宝篋印塔)は紫式部の供養塔と伝えられ、様式から鎌倉時代のものと推定されるもので、国の重要美術品に認定されています。
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「須磨には、年返りて、日長くつれづれなるに、植ゑし若木の桜ほのかに咲き初めて、空のけしきうららかなるに、よろづのこと思し出でられて、うち泣きたまふ折多かり」
「若木の桜」は光源氏が紫の上を想って植えた桜。
須磨寺の源平の庭に「若木の桜跡」が残されています。
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鎌倉との繋がりを求めて。