精進池
中世の元箱根の精進池の辺りは、荒れ果てた風景が続き、箱根越えの旅人には「地獄」と呼ばれて恐れられていた所なのだそうです。
そこに造られたのが地蔵菩薩の石仏。
六道地蔵
応長地蔵
二十五菩薩石仏群
これらの石仏は安山岩製で鎌倉時代後期に集中して造られています。
※二十五菩薩石仏は26体の磨崖仏群で24体が地蔵菩薩像。
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注目は多田満仲のものと伝えられる安山岩の宝篋印塔。
刻銘によると、1296年(永仁4年)、大和国の石工大蔵安氏によって造立されました。
塔身の一面には阿弥陀如来坐像の浮彫り
塔身の三面には種子
石工心阿の追刻によると、1300年(正安2年)には極楽寺の忍性が供養の導師を勤めていることが判明しています。
心阿は大蔵安氏の子で、安氏が宝篋印塔製作の途上で死去したため、心阿がその跡を受け継いで完成させたのだといいます。
この宝篋印塔は関西形式から関東形式に移行する最初の塔であるともいわれています。
多田満仲は清和源氏二代目。
子の頼光は摂津源氏の祖、頼信は河内源氏の祖。
何故、箱根に満仲の宝篋印塔と呼ばれているのかは不明です。
さて・・・
極楽寺の忍性といえば、多くの慈善救済事業に力を注いだ高僧。
大和国の大蔵派の石工集団を率いて、建設や土木事業を行っていました。
当時、安山岩を加工する技術を持った者は関東にはいなかったようですので、忍性が元箱根の石仏群に大きく関わっていたのかもしれません。
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参考までに・・・
鎌倉にも心阿の名が刻まれた宝篋印塔が安養院にあります。
1308年(徳治3年)の銘があるもので鎌倉最古の石塔と言われています。
良弁尊観のものと伝えられていますが、忍性の宝篋印塔という説もあるようです。
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