連署や評定衆の設置、御成敗式目の制定、和賀江嶋の築港、朝夷奈切通の整備等、北条泰時の時代は北条執権政治を軌道に乗せた時代であるといっていいのかもしれません。
(現存する我が国最古の築港)
しかし、1240年(仁治元年)、連署だった時房が亡くなるとその後任者が決まらず、政所の下文(くだしぶみ)には、泰時以下評定衆の長老7人が署名していたといいます。
かなり政局が不安定になっていことが考えられます。
この形は四代執権経時の時代まで続いています。
そんな中、泰時が1242年(仁治3年)に亡くなりました。
なぜか『吾妻鏡』は、この時期の記事を欠いています。
源頼朝の死の前後3カ年も欠落していますが、何か歴史に残してはいけない事件が発生していたのかもしれません。
嫡子時氏は早世していたので、後継者争いがあったとも考えられます。
大船の常楽寺は、泰時が建てた粟船御堂を前身としています。
蘭渓道隆がここで禅を広めたことから建長寺の根本ともいわれています。
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どういう経緯だったのかはわかりませんが、四代執権に就任したのは、泰時の孫(時氏の長男)の経時でした(順当な線です。)。
しかし、四代将軍藤原頼経をとりまく御家人が存在し、かなり大きな政治勢力となっていたとものと考えられます。
こうした中、執権政治の危機を感じた経時は、1244年(還元2年)、将軍頼経を辞任させ、その子の頼嗣を五代将軍としています。
ただ、頼経は将軍職を追われた後も鎌倉にとどまり「大殿」(おおいどの)と呼ばれていたそうです。
翌年、経時は重病にかかります。
そして、1246年(還元4年)3月23日、経時は執権職を弟時頼に譲りました。
その1ヶ月後の閏4月1日、経時は亡くなっています。『吾妻鏡』には、「佐々目(笹目)山麓に葬られた」と書かれています。
材木座の光明寺は、経時が建てた寺と伝えられています。
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時頼の執権就任は、経時邸で行われた「深秘の御沙汰」によるものでした。
「深秘の御沙汰」とは、得宗家の私的会議で、のちの得宗家の政治に大きな発言力を持つようになります。
ただ、時頼の執権就任は、経時の子息がまだ幼かったため弟に執権職を譲ることが決められたものでしたので、必ずしも順当なものではありませんでした。
こうした密室的な会議での決定というのは、やはり反発を生むものです。
時頼の執権就任後間もない5月、名越光時が前将軍の頼経と結んで時頼を討とうと企てますが、時頼はその陰謀をうち破り、光時は伊豆に流されました。
頼経は鎌倉追放となり京都に送還されています(宮騒動)。
十二所の五大堂明王院は、四代将軍藤原頼経が創建した寺です。
将軍が建立した寺は、この明王院が最後となります。
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そして、時頼は、1247年(宝治元年)、外様御家人の最大勢力であった三浦氏を標的とします。
当時の三浦泰村の幕府重鎮としての存在は大きく、時頼が連署に北条重時を迎えたい旨を相談した折、
「然るべからず」という泰村の一言で凍結されてしまったことが『吾妻鏡』に記されています(1246年(寛元4年)9月1日の条)。
また、泰村の弟光村は、宮騒動によって京都に送還される前将軍頼経に供奉し、
「今一度相構えて、鎌倉中に入れ奉らんと欲す」
と話したという記事が『吾妻鏡』に載せられています(1246年(寛元4年)8月12日の条)。
この記事によって光村は頼経派であったことがわかります。
宝治合戦の戦端が開かれた場所といわれています。
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時頼は、光村が前将軍頼経をとりまく陰謀に加担していたことを捉えて、三浦氏を追い込んでいきます。
そこには、安達氏と三浦氏との対立も絡んでいました。
三代将軍源実朝が暗殺されてから出家し高野山に入っていた安達景盛が鎌倉に戻り、子義景と孫泰盛に三浦氏を警戒するよう促しています。
そんな中、鶴岡八幡宮の鳥居前に「三浦泰村は近日誅罰されるので謹慎するように」との立て札が建てられたといいます。
『吾妻鏡』には、時頼の和平交渉があったことが記されているようですが、果たしてその真相はどうだったのでしょう?
そして、1247年(宝治元年)6月5日、安達景盛が子義景と孫泰盛に号令し、三浦邸を攻撃します。
この期に及んで時頼も三浦邸を攻めることを決定したといいます。
この攻撃によって三浦泰村とその一族は源頼朝の法華堂に籠もり、そこで自刃したと伝えられています。
北条義時の法華堂跡とされる山肌に掘られたやぐらです。
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法華堂に集まった三浦一族は、頼朝の御影の前に整列し、毛利季光(大江広元の子)が法事讃を唱えたといいます。
最期の様子は、法華堂の天井裏に潜んでいたという承仕法師によってその凄惨さが伝えられていますが、中でも三浦光村は自らの顔を刀で削り正体をわからなくしてから自刃したといいます。
宝治合戦は、三浦氏の反乱として報告され、後日、三浦氏の与党だった千葉秀胤も討伐されています。
ここに、頼朝以来の三浦・千葉という豪族が滅亡し、北条氏の独占的地位が確立します。
そして、宝治合戦から間もない7月27日、六波羅探題だった北条重時が連署に迎えられます。
これによって、政所下文(くだしぶみ)への署名も、時頼・重時の両執権のみが署名する形となり、時頼による執権政治の安定化が図られました。
兄経時を追って自ら執権の座に就いたともいわれる時頼。
経時の子息はいずれも出家してその身を終えています。
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2022年の大河は北条義時