材木座の来迎寺に墓がある武将はだれか。
源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由は何か。
材木座の来迎寺はもともと源頼朝が衣笠城主〔 〕の菩提を弔うために建立した寺であった。戦死した〔 〕は 17 回忌まで生きたものとみなすように頼朝が伝えたため「〔 〕公」とも呼ばれた。
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材木座の来迎寺は、源頼朝が三浦義明の菩提を弔うために建てた能蔵寺を前身としている寺院。
(来迎寺)
1180年(治承4年)、伊豆国で源頼朝が挙兵。
三浦一族の総帥・三浦義明は頼朝に味方しますが、畠山重忠らに居城の衣笠城を攻められ討死しました(小坪・衣笠合戦)。
来迎寺には三浦義明と孫で由比ヶ浜で命を落とした多々良重春の五輪塔が建てられています。
江戸時代の門付歌に「鶴は千年、亀は万年 三浦大介百六つ」というのがあったそうです。
※門付とは、門前で音曲などを奏する芸。
これは、源頼朝が三浦義明の17回忌で「あなたは今も私の中で生きている」と述べたことに始まっているのだとか。
義明が亡くなった89歳に17歳を足して「百六つ」。
(横須賀)
能蔵寺が建てられたのと同じ年、頼朝は義明の本拠地にも、義明を供養するための満昌寺を建立しています。