鎌倉幕府は、1333年(元弘3年)、後醍醐天皇の綸旨を受けて上野国で挙兵した新田義貞に滅ぼされました。
後醍醐天皇による親政(建武の新政)が開始されますが・・・
1335年(建武2年)、足利尊氏が離脱。
このきっかけを作ったのが北条時行が起こした中先代の乱でした。
翌年、尊氏は光明天皇を即位させて「建武式目」を制定し、室町幕府を成立させます。
これにより建武の新政は崩壊し、後醍醐天皇は花山院に幽閉されてしまいます。
その後、後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野へ行幸。
自ら主宰する朝廷を開いたことにより、京都朝廷(北朝)と吉野朝廷(南朝)が並立する南北朝時代が始まります。
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1336年(延元元年/建武3年)、密かに吉野へ行幸した後醍醐天皇が居所としたのが吉水院(現在の吉水神社)。
後醍醐天皇が吉野に南朝を興すると、北条時行は朝敵の赦免を願い出たのだといいます。
『太平記』によると・・・
我らの敵は、鎌倉幕府を裏切り、さらに後醍醐天皇まで裏切った足利尊氏・直義の兄弟のみ。
北条一族を赦免して頂き、朝敵征伐の綸旨を賜りたく・・・
という内容だったのだとか。
如意輪寺は後醍醐天皇の勅願寺(南朝勅願寺)。
1339年(延元4年/暦応2年)8月16日、後醍醐天皇は還御することなく崩御(宝算52)。
陵墓は如意輪寺にあります。
吉野は・・・
天智天皇の後継を辞退した大海人皇子が下った地。
藤原道長が金峯山詣を行い自ら書写した経を埋納した地。
源頼朝に追われた源義経が身を隠し、愛妾の静御前と別れた地。
鎌倉幕府討幕運動(元弘の変)で、護良親王(後醍醐天皇の皇子)が一時拠点とした地。
そして、後醍醐天皇が南朝を興した地。
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鎌倉との繋がりを求めて。