1004年は深刻な旱魃(干ばつ)に見舞われた年。
藤原道長の『御堂関白記』によると6月10日から有用な降雨がなかったようです。
一条天皇も清涼殿の庭で雨乞いの祈祷をしたのだといいます。
そして登場するのが安倍晴明。
『御堂関白記』によると・・・
7月14日、晴明が五龍祭を奉仕すると、その日は終日陰り、時々微雨が降り、夜になると大雨になったのだといいます。
一条天皇は晴明に「被物」(かづけもの)を与えたのだとか。
被物は絹織物で働きのあった者に支給されていたようです。
ただ、干ばつ被害を解決するには至らなかったようです。
7月20日には旱魃の凶事を振り払うために長保から寛弘に改元され、8月には大極殿で祈雨の法会が行われているようです。
安倍晴明は、干ばつの年の翌1005年(寛弘2年)9月26日に85歳で没し、嵯峨に葬られたのだと伝えられています。
晴明神社は、1007年(寛弘4年)に一条天皇が安倍晴明の偉業を讃えるために創建したのだと伝えられています。
晴明墓は、晴明神社の飛び地境内で、晴明の命日には嵯峨墓所祭が斎行されています。
神泉苑は、794年(延暦13年)、桓武天皇によって平安京の大内裏(平安宮)に接して造営された広大な禁苑。
安倍晴明が行った五龍祭は雨乞いの祭で、龍神が棲むという神泉苑で行われることが多かったようです。
晴明がどこで五龍祭を行ったかはわかりませんが、晴明の息子・安倍吉平は神泉苑で祈祷をして雨を降らせたのだといいます。
平安末期には、静御前が舞って雨を降らせたのだとか・・・
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