『栄花物語』によると・・・
父の藤原道隆の死後、内大臣として権勢を奮っていた藤原伊周は、弟の隆家とともに花山法皇に矢を向けたことなどの理由から配流の宣旨を下されます。
自邸から密かに脱出した伊周は、宇治陵の道隆の墓に参り、北野天満宮を参拝。
その翌日、伊周は筑紫の太宰府に、隆家は出雲に流され、妹で一条天皇の中宮・定子は落飾。
配流途中の山崎で伊周が病気になったため、伊周は播磨、隆家は但馬に留まることが許されました。
播磨に流された伊周は、母高階貴子の病気を聞いて密かに入京しますが、捕らえれて大宰府に護送されました。
翌年、妹の定子が敦康親王を出産したことの恩赦によって都へ帰り、亡き母の墓前に参っています。
ただ、『栄花物語』は『源氏物語』を意識して書かれたといわれています。
伊周が帰京したときに敦康親王はまだ生まれていません。
藤原実資の『小右記』によると、伊周の召還は東三条院(藤原詮子)の病気による大赦だったようです。
『栄花物語』の作者は、紫式部と同じく藤原彰子に仕えた赤染衛門といわれています。
『源氏物語』では、須磨・明石に蟄居していた光源氏は、兄の朱雀帝に皇子が誕生したことで赦され、帰京しました。
『栄花物語』は、この場面を模倣しているようです。
伊周は配流前に宇治陵の道隆の墓を参っていますが、『源氏物語』でも光源氏は父桐壺帝の陵に参っています。
宇治陵は、関白・藤原基経が定めた藤原北家一門の埋骨地。
北野天満宮は、無罪の罪で太宰府に流され、同地で没した菅原道真を祀る社。
春日大社は、藤原氏の氏神。
『栄花物語』では、宇治陵と北野天満宮を参ったことになっていますが、藤原実資の『小右記』では愛宕山、『日本紀略』では春日大社に参ったことになっています。
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