995年(長徳元年)は、藤原道長にとって順風が吹き始めた年。
4月10日、関白だった長兄・道隆が薨去。
次兄の道兼が関白となるが5月8日に薨去。
5月11日、一条天皇は道長に内覧の宣旨を下し、6月19日には右大臣に任命しました。
道隆の嫡男・伊周は道長と権力の座を争っていましたが・・・
一条天皇の生母で道長の姉の詮子が道長を強く推したのだといいます。
そして、10年もの間、官職のない状況だった紫式部の父藤原為時にも順風が・・・
道長が氏の長者となった翌996年(長徳2年)、為時は越前守に叙任されました。
正月25日の除目では淡路守だったようですが、為時は一条天皇に申文を奏上。
申文には・・・
「苦学寒夜、紅涙霑襟、除目後朝、蒼天在眼」
の漢詩が書き添えられていたのだといいます。
「懸命に勉強したのに希望が叶わず、血の涙が襟をぬらしております。
もし、除目の変更があれば、蒼天(一条天皇)に更なる忠勤を誓うでしょう」
一条天皇は為時の漢詩の才に深く感動。
それを聞いた道長は為時を越前守としたのだとか。
淡路国は小国、越前国は大国、大きな違いがありました。
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