994年(正暦5年)、都に疫病が流行すると、一条天皇は疫神を神輿に移して船岡山に安置し、悪疫退散を祈る「紫野御霊会」 を営みます。
1001年(長保3年)に疫病が流行した際には疫神を船岡山から遷して今宮社(今宮神社)が造営されました。
今宮神社は、一条天皇の時代に疫病退散のために船岡山で行われた「紫野御霊会」 に始まる社。
紫式部が20歳前後の頃の正暦年間(990-995)、都では疫病が大流行。
一条天皇も疱瘡に罹患したといわれています。
疫病の流行は長徳年間(995-999)、長保年間(999-1004)まで続き、紫式部の夫藤原宣孝も疫病で亡くなったようです。
「消えぬまの 身をも知る知る 朝顔の 露とあらそふ 世を嘆くかな」
この歌は、紫式部が疱瘡になってしまった女性を励ますために詠んだと言われています。
「紫野御霊会」では、京中の人々が船岡山に登って綾傘に装飾を施して唄い踊ったのだといいます。
4月に行われる「やすらい祭」は、疫病の根源を花傘に集めて疫社に封じ込める祭で、紫野御霊会で人々が踊ったことに始まるのだと言われています。
玄武神社・川上大神宮・上賀茂のやすらい祭とともに国の重要無形民俗文化財。
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