承久の乱合戦供養塔
(各務原市・仏眼院)
1221年(承久3年)6月3日、幕府軍が遠江の国府へ着いたという知らせが京都に届いたことから、朝廷は防戦のため各地に軍隊を派遣しますが・・・。
6月6日夜明け、幕府軍の北条時氏と北条有時が木曽川の摩免戸(まめど)を渡ると、矢も飛ばさずに次々に退却。
山田重忠が奮戦しますが、幕府軍の攻撃に耐えきれず退却。
ただ、鏡久綱は留まって、旗に姓名を書いて立て置き、大江佐房と戦います。
久綱は
「臆病者の藤原秀康と組まされたので、思ったように戦うことができず、残念でならない」
と言って自害。
残された旗を見て皆涙したのだとか。
鏡久綱は佐々木定綱の孫で、源義経が元服したと伝えられる近江国鏡荘を領した武将。
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