『吾妻鏡』によると・・・
1217年(建保5年)5月12日、源実朝は相続の訴訟の一方に加担するため御所へやってきた壽福寺の退耕行勇にこう伝えます。
「政治に口を出すことは僧の礼儀作法としてはどうなのか?
そんなことは止めて修練を積むように」
これを聞いた行勇は、恨みを抱きながら帰り、寺の門を閉ざしたのだとか・・・
三日後の5月15日、実朝は行勇を慰めるために壽福寺を訪問。
行勇は恐縮し、しばらく禅室で仏法の話をしたのだといいます。
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退耕行勇は、真言宗を学び鶴岡八幡宮寺の供僧でしたが、のちに我が国臨済宗の開祖・栄西に師事して臨済宗を修めます。
1219年(建保7年)1月27日、実朝が暗殺されると、正妻の坊門姫の出家の戒師となりました。
実朝の首は波多野の地に葬られたと伝わりますが、供養には行勇が招かれたのだといいます。
実朝の菩提を弔うために建立された高野山の金剛三昧院の初代長老にもなっています。
(秦野市)
金剛寺は、実朝の御首を埋葬したことに始まると伝えられています。
金剛三昧院は、北条政子が源頼朝の菩提を弔うために発願した禅定院に始まる寺院。
のちに、源実朝の菩提を弔うため、政子の命により安達景盛を奉行として伽藍造営が進められ、金剛三昧院に改称されました。
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