信濃善光寺は、日本最古の仏像とされる「一光三尊阿弥陀如来像」を本尊とする寺院。
『吾妻鏡』によると・・・
1179年(治承3年)に焼失した善光寺の再建に尽力したのは源頼朝でした。
1187年(文治3年)、信濃国の御家人に命じて再建に着手し、1191年(建久2年)に落慶供養が行われています。
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~頼朝の善光寺参詣計画~
『吾妻鏡』によると・・・
1195年(建久6年)春に東大寺の大仏殿落慶供養に参列した頼朝は、秋には信濃善光寺の参詣を計画しています。
しかし、「間もなく寒くなってしまう」という理由から、翌春に延期されました。
その後、参詣の計画がどのようになったのか『吾妻鏡』からはわかりません。
ただ、肥後国人吉藩の相良家に伝えられた相良家文書の「源頼朝善光寺参詣随兵日記」には・・・
1197年(建久8年)3月23日、九州の御家人であった相良四郎が随兵したことが記されているといいます。
参道の駒返り橋は、源頼朝の伝説が残された橋。
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~北条政子奉納の頼朝像~
甲斐善光寺に伝えられる「木造源頼朝坐像」は、北条政子が造らせた像ともいわれ、源頼朝の最古の彫像といわれています。
この像、かつては信濃善光寺にありました。
何故、甲斐善光寺にあるのでしょう?
甲斐善光寺は、武田信玄が上杉謙信との川中島の戦いで信濃善光寺が焼失してしまうことをおそれ、信濃善光寺の本尊(善光寺如来)を甲斐国に移してきたことに始まります。
その際、多くの寺宝とともに頼朝像も信濃から甲斐に移されたようです。
武田氏が滅びると、善光寺如来は各地を転々とした後、信濃に戻りますが、頼朝像はそのまま甲斐に残されました。
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