1180年(治承4年)8月17日、配流地の伊豆国で挙兵をした源頼朝は、石橋山の戦いで敗れてしまいますが、真鶴から安房国へと渡って再挙。
10月6日(7日)、大軍を率いて鎌倉に入ります。
先陣は畠山重忠、殿は千葉常胤でした。
ただ、北条時政と北条義時は、武田信義との連絡のため甲斐国に赴いていました。
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浄光明寺の不動明王は、京都の八坂の塔が傾いたときに祈祷の本尊だっという伝説の像。
長く神護寺に置かれていましたが、文覚がこの像の中に以仁王の平家打倒の令旨を隠して伊豆の源頼朝に届けたのだとか・・・
ただ、その様式から南北朝時代から室町時代のものらしい。
(光明寺)
頼朝に鎌倉入りを進言したのは千葉常胤。
光明寺の支院蓮乗院は、弁谷に屋敷があった常胤の檀那寺であったといわれています。
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頼朝は亀ヶ谷坂から鎌倉に入ったと考えられているようです。
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鶴岡八幡宮は、1063年(康平6年)に源頼義が由比郷に京都の石清水八幡宮を勧請して創建したことに始まります(由比若宮)。
鎌倉に入った頼朝は、10月12日、由比若宮を小林郷北山(現在地)に遷座し、武家の都の中心に据えます。
大倉幕府跡
(大倉御所跡)
(大倉御所跡)
御所の造営は、10月9日から大庭景義を奉行として始められ、12月12日に完成しました。
新造の御所に入った頼朝は、御家人311人から「鎌倉の主」に推戴されます。
鎌倉殿の誕生です。
この少し前の11月17日、和田義盛が侍所の別当に任じられています。
壽福寺は、頼朝の父義朝の旧跡に建てられた寺。
頼朝は当初、ここに御所を造営するつもりでいましたが、岡崎義実によって義朝の菩提を弔うための堂宇が建てられていたことや、土地が狭かったことなどから大倉の地を選んだのだといわれています。
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鎌倉と源氏の繋がりは、源頼義が平直方から大蔵亭を譲り受けたことから始まります。
北条時政・北条政子・北条義時は直方の子孫という説も。
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蛭ヶ小島の流人だった頼朝の夢の中に現れた隠れ里の神。
それは、稲荷神(宇迦御魂命)。
稲荷神に挙兵するよう告げられた頼朝は鎌倉に武家政権を樹立。
のちに隠れ里で稲荷の祠を発見した頼朝は、畠山重忠に命じて社殿を建立させたのだそうです。
それが佐助稲荷神社。
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明月院は山内経俊が、父首藤俊通の菩提を弔うために建てた明月庵が起源。
経俊は頼朝の乳母山内尼の子。
石橋山の戦いで頼朝に敵対し、富士川の戦い後、大庭景親らとともに降伏して土肥実平に預けられ所領の山内荘(北鎌倉)は没収されました。
その後、頼朝は処刑を決めますが、山内尼の哀訴で救われたのだと伝えられています。
(久成寺)
長尾定景は、長尾荘(横浜市戸塚区)を領した武将。
頼朝の挙兵に敵対し、石橋山の戦いで佐奈田与一義忠を討ち取りますが、富士川の戦い後に捕えられ、岡崎義実に預けられました。
その後、義実のはからいで助命され、三浦氏に仕えることに。
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(梶原)
梶原の御霊神社は、梶原景時の創建と伝えられています。
梶原景時は、石橋山の戦いで平家方にありながら山中に隠れ潜んでいた頼朝を見逃したという武将。
頼朝が鎌倉入りすると土肥実平の取りなしで御家人となりました。
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佐竹征伐の時に捕えられた者の中に頼朝に抗議した者がいました。
頼朝はその勇気に免じて「岩瀬与一太郎」という名を与えて御家人に取り立てたのだそうです。
五社稲荷神社は、岩瀬与一太郎の創建と伝えられています。
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1181年(養和元年)、頼朝は仮の宮だった鶴岡八幡宮を建て直します。
現在、舞殿が建てられているのは、この時の社殿の回廊だった場所。
上棟式では、大工の褒美に与える馬を引く役を命じられた源義経が快く引き受けなかったため頼朝の不興をかったのだと伝えられています。
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若宮大路は、鶴岡八幡宮の参道。
1182年(養和2年)、北条政子が懐妊したのを機に造営が開始されました。
頼朝自らが陣頭に指揮を取り、北条時政をはじめとする御家人らが土や石を運んだのだといいます。
若宮大路の中央の段葛や源平池も同時に造営されたものと考えられています。
源平池の造営は、伊豆山権現の専光坊良暹(りょうせん)、大庭景義らが担当しました。
源氏池の島にある旗上弁財天社は、北条政子建立と伝えられています。
若宮大路を造営する際、琵琶小路にあった祠に安置されていた弁財天を安置したことに始まるのだといいます。
社殿裏に置かれている政子石は、夫婦円満と子宝の祈願石。
(妙本寺)
政子は比企邸で出産しました。
生まれたのが二代将軍となる源頼家。
初めて乳を与える儀式には、河越重頼の妻(河越尼)が呼ばれています。
河越尼は頼朝の乳母比企尼の次女。
妙本寺は、比企能員の邸跡に建立された寺院。
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1182年(養和2年)、頼朝は奥州平泉の藤原秀衡調伏のため、文覚に命じて江の島に弁財天を勧請しました。
(江島神社奥津宮)
江島神社の奥津宮入口の石鳥居は、この時に頼朝が寄進したもの伝えられています。
江の島は、古くからの霊地。
北条時政は江の島に参籠して神龍の三つの鱗を得たのだといいます。
それが、北条氏の家紋「ミツウロコ」になったのだとか。
江の島に弁財天を勧請する前年、頼朝は補陀洛寺を建立して祈願所としました。
開山は文覚。
源頼朝像(自作)・文覚上人裸形像(自作)・平宗盛が所持していたという平家の赤旗が伝えられています。
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文覚は、恋する袈裟御前を誤って殺してしまったことから出家し、高尾の山で修行を積んだという僧。
神護寺再興を後白河法皇に強訴して伊豆に流され、蛭ヶ小島の頼朝に挙兵を勧めたのだと伝えられています。
成就院の本堂前には文覚荒行像(模造)が置かれています。
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二十五坊は、鶴岡八幡宮寺供僧の住坊。
1182年(寿永元年)9月23日、頼朝は、鶴岡八幡宮の初代別当に園城寺の円暁を任命。
1191年(建久2年)には「供僧二十五口の制」が定められました。
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荏柄天神社は、頼朝が鎌倉に入るより前からある古社。
鎌倉幕府の鬼門の守護神とされました。
本覚寺の夷堂は、頼朝が御所の鬼門にあたる方向の鎮守として夷神を祀ったのがその始まり。
夷三郎社と呼ばれ、現在の仁王門の前辺りにあったのだといわれています。
御霊神社(坂ノ下)は、鎌倉権五郎景政を祀ります。
頼朝の挙兵に敵対した大庭景親、平家方に付きながら頼朝を助けた梶原景時は、景政の子孫と言われています。
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1183年(寿永2年)12月、頼朝は鎌倉入りの際に2万騎を率いて参陣した上総広常を梶原景時に暗殺させます。
朝夷奈切通にある梶原太刀洗水は、景時が太刀の血を洗い流した水と伝えられています。
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(常楽寺)
1183年(寿永2年)、頼朝と木曽義仲が対立。
あわや合戦というところまでになりますが、義仲が長男義高を頼朝のもとへ人質に出すことで和議が成立します。
しかし、1184年(寿永3年)、木曽義仲を追討した頼朝は、鎌倉の義高も誅殺。
常楽寺の裏山にある木曽塚には、義高の首が葬られていると伝えられています。
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頼朝が鎌倉入りした頃の西の境は稲瀬川だったと考えられています。
北条政子が鎌倉入りする際には、日程調整のため稲瀬川に宿泊しました。
1184年(元暦元年)8月、頼朝が平家追討のため出陣する源範頼を見送ったのも稲瀬川でした。
この翌年、平家は壇ノ浦で滅亡します。
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教恩寺の本尊は、一ノ谷の戦いで捕えられた平重衡が頼朝から与えられたという阿弥陀如来。
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西国で平家追討の戦いが行われている間、鎌倉では、政治・財政を司る公文所(1184年(元暦元年)8月14日設置)と、裁判を司る問注所が設置されます(同年10月20日)。
公文所別当には大江広元が、問注所執事には三善康信(善信)が就任しています。
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主馬盛久は、平清盛の側近だった平盛国の子。
壇ノ浦の戦いで捕えられ、由比ヶ浜で処刑されるはずでしたが・・・
京都の清水寺の観音菩薩を信仰していたことで許されたのだといいます。
頼朝は清水寺から下された観音像を守り本尊としていました。
参考までに、上野の寛永寺の清水観音堂の本尊は、盛久が清水寺に奉納したものと伝えられている千手観音。
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木曽義仲追討・一ノ谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いで活躍した源義経。
壇ノ浦の戦いで捕えた平宗盛を護送して鎌倉に凱旋しようとしますが、頼朝は義経の不行跡を理由に鎌倉に入ることを許しませんでした。
満福寺は、義経が弁明のための「腰越状」を書いた寺と伝えられています。
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1185年(文治元年)、土佐坊昌俊は、頼朝の命により義経がいる京都の堀川館を襲撃しました。
襲撃は失敗に終わりますが、義経は後白河法皇より頼朝追討の院宣を得ています。
昌俊は、源義朝に仕えた金王丸とも言われています。
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勝長寿院は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した寺院。
1185年(文治元年)9月3日、後白河法皇に探し出してもらった義朝とその郎党鎌田政清の髑髏が埋葬されています。
頼朝亡き後、北条政子が建てた五仏堂には、運慶の五代尊像が安置されたのだと伝えられています。
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1185年(文治元年)11月、頼朝の命で入京した北条時政は、朝廷に「義経・行家の捜索・逮捕」、「守護・地頭の設置」、「兵粮米の徴収」を認めさせました(文治の勅許)。
これにより、頼朝は、自らの命で動かすことのできる御家人を全国に配置することになります。
「守護・地頭」を設置する案を献策したのは、大江広元でした。
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巳の年の巳の月の巳の日に宇賀福神から「西北の仙境に湧きだしている霊水で神仏を祀れば、世の中が平穏に治まる」と告げられた頼朝。
そのお告げで祀られたのが銭洗弁財天宇賀福神社。
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1186年(文治2年)4月、源義経の愛妾静御前が鶴岡八幡宮で舞いました。
前年、義経とともに都落ちし、吉野山で義経と別れた静は、義経を慕う今様を歌いながら舞ったのだといいます。
工藤祐経が鼓を畠山重忠が銅拍子を担当しました。
静の舞に参列者のほとんどが心を動かされたようです。
頼朝は激怒したそうですが・・・
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1187年(文治3年)8月15日、頼朝は鶴岡八幡宮で放生会を催します。
これが鶴岡八幡宮例大祭のはじまりと伝えられています。
放生会では流鏑馬も奉仕されました。
この前年、頼朝は東大寺再建の勧進のため平泉へ赴く途中の西行と出会い、弓馬について話を聞いていたのだといいます。
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浄妙寺は、頼朝の重臣足利義兼が1188年(文治4年)に創建した極楽寺を前身とする寺院。
義兼の妻は北条時政の娘時子。
時子は北条政子と北条義時の同母姉妹兄弟と考えられています。
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長谷寺の阿弥陀堂の阿弥陀如来は、厄除阿弥陀と呼ばれ、頼朝が42歳の厄除けに造立されたものと伝えられています。
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1188年(文治4年)、頼朝は伊豆箱根の伊豆山権現・箱根権現と三嶋社を参詣する二所詣を始めます。
頼朝亡き後も続けられ、源実朝をはじめとする代々の将軍家はもちろん、北条政子・北条泰時など北条氏による二所詣も行われました。
特に実朝は多くの和歌を残しています(『金槐和歌集』)。
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1185年(文治元年)、頼朝と対立して都を落ちた源義経は、1187年(文治3年)の春頃になって奥州平泉の藤原秀衡を頼ります。
正妻の郷御前や子らも一緒でした。
しかし、秀衡が亡くなると、跡を継いだ泰衡は、1189年(文治5年)閏4月30日、義経の衣川館を攻め、義経を自刃に追い込みました。
義経の首は、腰越の浜に運ばれ、6月13日、和田義盛と梶原景時が首実検を行ったのだといいます。
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(藤沢市:白旗神社)
腰越の浜での首実検後、捨てられた義経の首は境川を遡上して白旗神社付近に流れ着いたのだといいます。
白旗神社の近くには、義経の首を洗い清めたと伝えられる井戸が残されています。
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義経が平泉で自刃する前の3月、頼朝は亡母・由良御前の供養のため、鶴岡八幡宮の流鏑馬馬場に五重塔を建て始めます。
頼朝は、6月9日の五重塔の供養が終わるまで義経の首を鎌倉に入れなかったのだといいます。
そのため、腰越の浜での首実検が6月13日になってしまったようです。
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1189年(文治5年)7月、頼朝は伊豆山権現の專光坊良暹に命じて御所の裏山に奥州征伐の祈願所(持仏堂)を設けました。
本尊は、頼朝が三歳のときに京都の清水寺から下された観音像でした。
持仏堂は、頼朝亡き後に法華堂と呼ばれます。
同じ頃、北条時政は願成就院(伊豆の国市)、和田義盛は浄楽寺(横須賀市)を建立して奥州征伐の成功を祈願しています。
そして、この年の9月3日、奥州藤原氏が滅亡しています。
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小動神社は、文治年間(1185~90)に佐々木盛綱が近江の八王子社を勧請したのが始まりと伝えられています。
盛綱は、1180年(治承4年)の山木館襲撃で加藤景廉とともに山木兼隆を討ち取った武将。
7月の天王祭は、江の島の八坂神社との行合祭。
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奥州藤原氏を滅ぼして10年にも及ぶ戦乱の世に終止符をうった頼朝は、1190年(建久元年)、ついに上洛を果たします。
この上洛で鞍馬寺を訪れた頼朝は、行基作と伝わる毘沙門天像二体のうちの一体を賜り、翌年、その像を安置するため、鎌倉に毘沙門堂を建立。
それが白山神社の始まりと伝えられています。
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上洛した翌1191年(建久2年)2月21日、頼朝は、木曽義仲の焼討で損傷した後白河法皇の法住寺殿の修造に取りかかります。
指揮担当したのは、中原親能・大江広元・昌寛の三名。
平清盛に命じて創建された蓮華王院は、法住寺殿の一画にありました。
現在は、本堂の三十三間堂が残されています。
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1191年(建久2年)3月4日、小町で発生した火事の火の粉が鶴岡八幡宮の五重塔に燃え移り、鶴岡八幡宮が焼失。
直ちに再建に取り掛かった頼朝は、大臣山の中腹に上宮(本宮)を建立し、11月21日、改めて石清水八幡宮の神霊を迎えました。
鶴岡八幡宮が現在のような姿となったのはこの時から。
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1192年(建久3年)3月13日、後白河法皇が崩御。
法住寺殿の一画に建立された法華堂に葬られました(後白河天皇法住寺陵)。
この年の7月12日、頼朝は念願の征夷大将軍に任命されています。
鶴岡八幡宮での辞令交付式で辞令を受け取ったのは三浦義澄でした。
8月9日には北条政子が男児(のちの源実朝)を出産しています。
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1191年(建久2年)、前年から建立に取り掛かっていた永福寺の苑池と中堂が完成します。
中堂は「二階堂」と呼ばれ、奥州平泉の中尊寺の大長寿院を模したものでした。
1193年(建久4年)には阿弥陀堂、1194年(建久5年)には薬師堂が建立されました。
永福寺跡には、2019年(平成31年)4月に平泉町から鎌倉市に寄贈された中尊寺ハスが置かれています。
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1193年(建久4年)、頼朝は富士裾野の巻狩りを催します。
この時、嫡男頼家が愛甲季隆の指南で初めて鹿を射とめています。
曽我兄弟の仇討ち事件も発生しました。
曽我兄弟は、親の仇工藤祐経を討ちますが、兄の十郎祐成は仁田忠常に討ち取られ、弟五郎時致は捕らえられ梟首されています。
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(来迎寺)
材木座の来迎寺は、1194年(建久5年)に頼朝が義明の菩提を弔うために建立した能蔵寺を始まりとしています。
多々良重春は義明の孫で、畠山重忠との小坪合戦で討死しました。
能蔵寺が建てた年、頼朝は義明の本拠地にも、義明を供養するための満昌寺を建立しています。
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仮粧坂には、頼朝の暗殺を企てたという平景清が幽閉されていたという牢跡(景清窟)が残されています。
1195年(建久6年)、頼朝は東大寺の大仏殿の落慶供養に参列します。
その時、景清は頼朝暗殺を企てたのだといいます。
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現在の鎌倉大仏の鋳造が始められるのは1252年(建長4年)のことですが、東大寺の大仏を見た頼朝は「東国にも大仏を」と望んでいたのだといいます。
その遺志を受け継いだのが大仏造立を発起した稲多野局だったのだと伝えられています。
稲多野局は頼朝の上洛にも従っていたのだとか・・・
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東大寺の大仏殿の落慶供養のため上洛した頼朝の真の目的は、長女大姫を後鳥羽天皇の妃にすることだったともいわれています。
しかし、大姫は1197年(建久8年)7月14日に死去。
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1199年(建久10年)1月13日、源頼朝死去(享年53)。
前年末に参列した相模川の橋供養の帰りに落馬したことが原因と伝えられますが、詳しい死因は不明です。
遺体は持仏堂に葬られ、頼朝埋葬後は法華堂と呼ばれました。
現在の墓塔は江戸時代に建てられたもの。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『北条九代記』は・・・
稲村ヶ崎で安徳天皇の亡霊を見た頼朝は、急にめまいがして落馬。
すぐに供をしていた者が助け起こしますが、御所に帰った後に病気となり亡くなったのだと伝えています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(鶴岡八幡宮)
鶴岡八幡宮の境内にある白旗神社は、死後「白旗明神」の神号を賜った頼朝を祀るため、北条政子が創建しました。
のちに源実朝を祀る柳営社と合祀されています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(法華堂跡)
法華堂跡の白旗神社は、明治の神仏分離で頼朝を祀る神社として建立されました。
雪ノ下の松源寺(廃寺)にあった頼朝の古牌が奉納されています。
西御門の来迎寺に安置されている如意輪観音像は法華堂にあったのだといいます。
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横浜市戸塚区の平戸白旗神社には、鶴岡八幡宮の供僧坊・相承院から送られたという頼朝の遺髪が伝えられ、3年に一度、例大祭の日に公開されています。
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横須賀市の東漸寺には、松源寺の地蔵像が置かれています。
流人時代、頼朝は日金山東光寺(熱海市)の地蔵菩薩を信仰し、鎌倉の松源寺にはその模刻が本尊として置かれていたのだといいます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(宝戒寺の碑)
宝戒寺は、代々の執権館の跡地に建てられた寺院。
北条義時の小町亭もこの辺りにあったのだといいます。
頼朝亡き後の鎌倉は、有力御家人が次々に滅ぼされ、北条氏による執権政治が確立されていきます。
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頼朝の死から間もない6月30日、頼朝の次女三幡が亡くなります。
乳母夫だった中原親能の亀谷堂に埋葬されたのだと伝えられています。
亀ヶ谷坂の入口にある岩船地蔵堂は、三幡の姉大姫の守り本尊といわれる石地蔵尊が安置されている堂といわれますが、三幡の墳墓堂ではないかという説もあります。
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中原親能は近江国の石山寺を信仰し、妻で三幡の乳母を務めた亀谷禅尼は、出家後、石山寺に住したのだといいます。
石山寺には、頼朝と亀谷禅尼のものといわれる宝篋印塔が並んで建てられています。
石山寺の東大門・鐘楼・多宝塔は頼朝の寄進と伝えられています。
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1199年(正治元年)12月18日、梶原景時が結城朝光を讒言したことをきっかけに鎌倉から追放となり、所領の一宮に退きます。
翌1200年(正治2年)正月20日、景時は上洛するため一宮を発ちますが、駿河国清見関付近で在地武士と合戦となり最期を遂げました(梶原景時の変)。
仏行寺の源太塚には、景時の子で父とともに討死した景季の片腕が埋められているのだと伝えられています。
仏行寺は、景季の死に悲しんで自害した妻の信夫の霊を慰めるために建てられたのだといいます。
鎌倉山には「しのぶ塚」があって源太塚と向き合っているのだとか・・・。
(大巧寺)
大巧寺は、十二所の梶原景時邸にあった「大行寺」という真言宗の寺で、頼朝が戦評定を行い大勝を収めたことから、「大巧寺」と改められたのだといいます。
大巧寺がいつ頃から現在地に移転したのかはわかりませんが、梶原景時の変で景時の屋敷は解体されて永福寺の僧侶の住居として寄附されています。
毎年、7月15日、建長寺では景時の亡霊を鎮めるための三門梶原施餓鬼会が行われています。
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梶原景時が駿河国で討死してから3日後の1月23日、頼朝の挙兵当初からの御家人三浦義澄が死去(享年74)。
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1200年(正治2年)、北条政子は頼朝の父義朝の旧跡を栄西に寄附。
閏2月13日、三善康信(善信)と二階堂行光の奉行によって、壽福寺建立の「造作始め」が行われます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
壽福寺を開いた栄西は、わが国臨済宗の開祖。
1202年(建仁2年)には、源頼家の援助で京都の建仁寺を開いています。
「十日ゑびす」で知られる恵美須神社(ゑびす神社)は栄西が建仁寺の鎮守として創建したのだといいます。
1206年(建永元年)には東大寺の二代目大勧進職に任じられ、東大寺の鐘楼は栄西が再建しました。
栄西が著した我が国最古の茶書『喫茶養生記』は、源実朝にも献上されています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(鎌倉歴史文化交流館)
1200年(正治2年)4月26日、頼朝が蛭ヶ小島の流人の頃から仕えていた安達盛長が亡くなります(享年66)。
盛長の屋敷は甘縄にあったとされ、古くから甘縄神明神社の東南あたりと伝えられてきたようです。
ただ、鎌倉時代の「甘縄」の範囲は、坂ノ下の御霊神社辺りから扇ヶ谷を含めた広範な地だったと考えられています。
近年の調査では、無量寺ヶ谷(扇ガ谷)にあったとされているようです。
無量寺(無量寿院)は安達氏の菩提寺。
鎌倉歴史文化交流館が建てられている地が無量寺跡とも考えられているようです。
長谷の鎮守・甘縄神明神社は、710年(和銅3年・奈良時代)に行基が草創し、豪族の染屋時忠が建立した鎌倉で最も古い神社とされています。
『北条九代記』によると、頼朝に鎌倉入りを進言した千葉常胤は、「鎌倉の地名は大織冠藤原鎌足の伝説に由来していること」、「鎌足の玄孫染屋時忠が鎌倉に居住して関東八か国の追捕使を勤めていたこと」、「平貞盛の孫平直方は、源頼義に娘を娶らせ、八幡太郎義家が誕生すると、鎌倉の地を義家に譲り、以来、鎌倉は源家重代の領有地となったこと」を理由に挙げたのだと伝えています。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
(妙本寺)
1203年(建仁3年)9月2日、二代将軍源頼家が重病となったの機に北条時政が比企能員を暗殺します。
暗殺を実行したのは天野遠景と仁田忠常でした。
同時に、北条政子が北条義時らに命じて比企邸を襲撃させたことにより比企一族は滅亡しました(比企能員の変)。
(妙本寺)
襲撃をうけた比企一族は、頼家の嫡子一幡の小御所に籠って防戦しますが、畠山重忠の威力に押され、館に火を放って自刃したのだといいます。
一幡もその難を免れることはできませんでした。
(妙本寺)
頼家の側室で一幡の母若狭局(讃岐局)は、比企ヶ谷が燃え上がる中、井戸に身を投げたのだと伝えられています。
その井戸が蛇苦止ノ井(蛇形井)。
比企能員は、武蔵国比企郡を領した豪族。
源頼朝の乳母を務めた比企尼の猶子(甥)。
比企尼は、1160年(永暦元年)3月、頼朝が伊豆国の蛭ヶ小島に流されると、忠義を尽くすために夫の比企掃部允とともに京都から武蔵国比企郡へ下り、1180年(治承4年)8月に頼朝が挙兵するまでの約20年の間、援助を続けました。
頼朝は、流人時代に世話になった比企尼を鎌倉に迎え入れますが、妙本寺の祖師堂の辺りに比企尼の屋敷があったのだといいます。
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比企能員の変が起こる少し前の6月23日、頼家への謀反を企てたとして捕らえられた阿野全成が誅殺されています。
全成は頼朝の異母弟で北条時政の娘阿波局を妻としていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
比企能員の変後、頼家は出家させられ、弟の実朝が三代将軍に就任します。
頼家は修禅寺に幽閉され、翌年7月18日に暗殺されました。
修禅寺の頼家墓の横には、北条政子が頼家の冥福を祈って建てたという指月殿があります。
浅草寺の宝蔵門には、政子が頼家の追善供養のために中国から取り寄せて鶴岡八幡宮に奉納したという「元版一切経」が収蔵されています。
三嶋大社には、重病となった頼家が平癒を願って奉納したという般若心経が伝えられています。
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畠山重忠は武蔵国の武将。
頼朝の鎌倉入り・奥州征伐・上洛などで先陣を務め「鎌倉武士の鑑」と呼ばれました。
1205年(元久2年)6月22日、北条時政の謀略により武蔵国の二俣川で最期を遂げます。
(若宮大路)
畠山重保は、重忠の嫡子。
父重忠が討たれた日の早朝、重保は由比ヶ浜に謀反人が集結しているとの報を受けて従者3人とともに浜へと向かいますが、待ち構えていた三浦義村の手の者が重保を取り囲み、重保は訳のわからぬまま討ち取られてしまったのだと伝えられています。
重保の屋敷は、若宮大路の一の鳥居の近くにあったのだといいます。
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武蔵国の有力御家人畠山重忠を滅ぼした北条時政でしたが、2か月後の閏7月19日、時政の後妻牧の方による「源実朝を亡きものにして娘婿の平賀朝雅を将軍に据えよう」という企てが発覚(牧氏の変)。
時政は出家し、翌日、伊豆国へ追放となりました。
そして、1215年(建保3年)1月6日、北条の地で死去。
時政が創建した願成就院に墓が建てられています。
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(江の島)
江島神社の辺津宮は、源実朝の命によって鶴岡八幡宮の供僧良真によって創建されたと伝えられています。
(江の島・辺津宮)
辺津宮にある江島霊迹建寺の碑は、1204年(元久元年)、源実朝が宋国に使節を送った際、宋の慶仁禅師より贈られた石碑と伝えられています。
円覚寺の舎利殿には、源実朝が宋国の能仁寺より請来した仏舎利が納められているのだといいます。
江の島の伝説によると、実朝が宋に送った使節が持ち帰ったものなのだとか。
円覚寺の舎利殿は、西御門にあった太平寺の仏殿だったもの。
太平寺は頼朝が命を助けてくれた池禅尼の恩に報いたいるために、禅尼の姪の願いを聞き入れて建てた寺がはじまりだったのだとか。
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1213年(建暦3年)5月2日、和田義盛が北条義時打倒の挙兵をします。
三男朝比奈義秀の活躍もあって和田勢は大いに奮戦しましたが、次第に北条軍に押され由比ヶ浜に退き、翌日、江戸義範の軍に討たれて最期を遂げました(和田合戦)。
由比ヶ浜の和田塚は、和田合戦の戦死者を葬った所と伝えられています。
足利義氏は、政所前の筋替橋付近で朝比奈義秀と遭遇。
義秀に鎧袖を掴まれますが、義氏が馬に鞭を打って堀を飛び越えると、鎧袖がちぎれ落馬もせずに逃れることができたのだといいます。
武田信光は、若宮大路の米町口(下の下馬橋付近)で朝比奈義秀と遭遇。
両者は睨み合って戦おうとしますが、信光の子信忠が身代わりになろうと割って入ります。
父に代わって死を選んだ信忠に感じ入った義秀は、戦わずして走り去ったのだといいます。
若宮大路の琵琶橋では、八田知家の四男宍戸家政が朝比奈義秀と戦って討死したのだといいます。
(赤橋)
かつての鶴岡八幡宮の太鼓橋は、朱塗りの橋だったことから赤橋と呼ばれていた。
赤橋付近では、和田勢の土屋義清(岡崎義実の子)が神矢を受けて討死し、壽福寺に葬られたのだと伝えられています。
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歌ノ橋は、和田合戦のきっかけとなった泉親衡の謀反に加担したとして捕らえられた渋川刑部六郎兼守が架けた橋。
兼守は、無実の罪を晴らすために十首の和歌を荏柄天神社に奉納。
それを手にした源実朝は、感動して兼守を無罪放免に。
兼守は、その礼として二階堂川に橋を架けたのだといいます。
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山内荘(北鎌倉)は、富士川の戦い後、土肥実平に預けられ、和田合戦の時には、実平の孫惟平が地頭職を務めていました。
しかし、惟平は和田義盛に味方して処刑されたことから、北条義時の預かりとなります。
以後、山内荘は北条得宗家の所領となり、建長寺・最明寺(明月院)・浄智寺・円覚寺・東慶寺といった禅寺が建ち並ぶようになります。
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(鶴岡八幡宮)
「山はさけうみはあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも」
1213年(建暦3年)に源実朝が詠んだ歌。
この年、和田合戦が起こり、直後には大地震に見舞われ、「山は崩れ地は裂ける」という状況だったのだといいます。
「君」とは、後鳥羽上皇のこと。
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大慈寺は、1212年(建暦2年)に源実朝が後鳥羽上皇への恩と父頼朝の徳をたたえるため、大倉郷に建設を開始した寺院。
1214年(建保2年)7月27日には、栄西が呼ばれ、北条政子も参列する大法要が催されました。
三善康信が実朝に話した霊夢によると、頼朝も大倉郷に寺を建てようとしていたのだとか。
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1216年(建保4年)正月15日、江の島明神からのお告げがあって、海がたちまちのうちに道になってしまい、参詣者は船に乗ることなく江の島へ渡れるようになったのだとか。
その様子を視察した三浦義村は、源実朝に「霊験あらたかなことでございます」と報告しています。
江の島トンボロは、江の島と片瀬の浜が干潮時につながる砂の道。
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鎌倉時代には、鶴岡八幡宮の前の浜という意味から「前浜」と呼ばれていた由比ヶ浜。
1180年(治承4年)の頼朝の挙兵時には小坪合戦がありました。
1186年(文治元年)、源義経の愛妾静御前が産んだ男児が捨てられました。
1187年(文治3年)、鶴岡八幡宮の放生会を始めた頼朝は千羽鶴の放生を行ったのだとか・・・
伊豆・箱根の二所詣の際には沐浴で身を清める「二所精進」が行われました。
1205年(元久2年)、畠山重忠の嫡男重保が三浦義村に討たれました。
1213年(建暦3年)、和田義盛が最期を遂げました。
そして源実朝は、1216年(建保4年)、渡宋を思い立ち、東大寺の大仏鋳造と大仏殿の建設に尽力した宋国の工人陳和卿に造船を命じました。
船は翌年完成しましたが進水はできなかったそうです。
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1219年(建保7年)1月27日、鶴岡八幡宮で行われた右大臣拝賀の式に出席した源実朝が甥の公暁に暗殺されました(源実朝の暗殺)。
剣持役の源仲章も殺害されています。
暗殺者の公暁は、乳母夫の三浦義村邸へと向かいますが、義村が差し向けた長尾定景によって討ち取られたのだと伝えられています。
実朝が暗殺される前年、北条義時は大倉薬師堂を建立。
運慶の薬師如来と十二神将が安置されたのだといいます。
義時は実朝の右大臣拝賀の式に剣持ちとして出席する予定でしたが、十二神将のうちの戌神が現れて救われたのだと伝えられています。
覚園寺は、大倉薬師堂を前身とする寺。
辻の薬師堂に安置されていた戌神は、義時を救った大倉薬師堂の戌神の模刻といわれ、現在は鎌倉国宝館に寄託されています。
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実朝の遺体は勝長寿院に葬られますが、首は義村の家臣武常晴が拾い上げ、波多野の地に葬られたのだとか。
秦野市の金剛寺は実朝の首が埋葬されたことに始まる寺と伝えられ、近くには実朝の首塚があります。
また、鎌倉国宝館に寄託されている木製五輪塔は、実朝の首塚に建てられたものと伝えられています。
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実朝が暗殺された年の7月19日、左大臣九条道家の子三寅(のちの四代将軍九条頼経)が鎌倉へ下ってきました。
三寅は2歳。
母は、西園寺公経の娘掄子(りんし)。
掄子は、頼朝の姉妹坊門姫の孫。
北条政子が頼朝の縁を大事にして、そ跡継ぎとして鎌倉へ下向するよう願ったのだといいます。
幼い鎌倉殿の後見役となった政子は、尼将軍と呼ばれるようになります。
明王院は、のちに九条頼経が創建した寺。
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1221年(承久3年)5月14日、後鳥羽上皇は御所に軍隊を集め、15日には呼び出しに応じなかった京都守護の伊賀光季を誅殺し、北条義時追討の院宣を発しました(承久の乱)。
これを受けて北条政子は、「故右大将(源頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深い・・・」と説いて御家人の結束を固めたのだと伝えられています。
幕府軍は、5月22日から東海道・東山道・北陸道の三道に分けて総勢19万騎で京都に向けて進軍を開始。
各所で朝廷軍を撃破し、6月15日、京市中に入って反乱を鎮圧しました。
鶴岡八幡宮の今宮は、乱後、配流となった後鳥羽・土御門・順徳の三天皇を祀っています。
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京都の城南宮は流鏑馬発祥の地といわれ、後鳥羽上皇は、城南流鏑馬の武者揃えと称して兵を募ったのだと伝えられています。
乱後、京都には朝廷の動きを監視するための六波羅探題が設置され、北条泰時と北条時房の二人が六波羅の北と南に駐留することになります。
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1224年(貞応3年)6月13日、北条義時が急死。
源頼朝の法華堂の東の山上に葬られられました。
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義時の死後、北条政子の命により北条泰時が三代執権に就任しますが、義時の後妻の伊賀の方は、兄伊賀光宗と謀反を企てたとして伊豆国に追放されています(伊賀氏の変)。
ただ、この事件は政子のでっちあげともいわれ、泰時は謀反を否定しています。
伊豆の国市にある北條寺には、泰時が建てたという義時と伊賀の方の墓が残されています。
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1225年(嘉禄元年)6月10日、頼朝の時代から幕府を支え続けた大江広元が死去(享年78)。
大江稲荷は広元を祀る社。
初午祭では大江広元木像を祀り、明王院の住職によって読経供養が行われます。
(明王院裏山)
明王院の裏山にある層塔は大江広元の墓と伝えられています。
(法華堂跡)
法華堂跡のやぐらにも五輪塔が置かれていますが、江戸時代に長州藩によって建てられたものだといいます。
戦国時代に中国地方を制覇した毛利元就は、広元の四男季光の子孫。
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(壽福寺)
1225年(嘉禄元年)7月11日、頼朝の妻として、頼家・実朝の母として、四代将軍藤原頼経の後見役として、鎌倉幕府の基礎を築いた北条政子が死去(享年69)。
勝長寿院で荼毘に付され葬られたと伝えられています。
(安養院)
安養院には、政子のものと伝わるの宝篋印塔(供養塔)が建てられています。
政子の法名は「安養院殿」。
政子は亡くなる年に、頼朝の菩提を弔うための長楽寺を建立します。
安養院は、その長楽寺を前身とする寺。
千手観音像は、頼朝に仕えた田代信綱の守り本尊の観音像が納められたものと伝えられ、田代観音と呼ばれています。
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鉄ノ井は、北条政子が創建した新清水寺の観音像の頭が掘り出されたという井戸。
江戸時代まで観音像の頭は井戸の前にあった鉄観音堂に安置されていましたが、明治の神仏分離で鉄観音堂は廃され、現在は東京人形町の大観音寺の本尊として信仰されています。
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(源氏山公園)
源氏山公園の源頼朝像は、頼朝の鎌倉入り800年を記念して建てられたもの。
源氏山は、源義家が後三年の役に出陣の際、源氏の白旗を立てて戦勝を祈願したことから付けられた名だといわれ、「旗立山」とも呼ばれます。
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2022年の大河ドラマ