源頼朝が流人生活を送っていた伊豆国。
そこには怪僧と呼ばれた文覚も流されてきました。
後白河法皇に神護寺再興の訴えを起こしたことで、法皇の怒りを買ってしまったのだそうです。
(鎌倉:成就院)
文覚は、元は遠藤盛遠といい、北面の武士として朝廷に仕えていました。
同僚の渡辺渡の妻・袈裟御前に懸想をし、渡を殺してしまおうとしたところ、誤って袈裟御前を殺してしまい僧になったという人物。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
伊豆国へ流された文覚は、頼朝が流されていたという蛭ヶ小島に近い奈古谷に庵を結んだのだといいます。
(伊豆の国市)
毘沙門堂は文覚が庵を結んだという場所に建つ堂で、頼朝はここで源氏再興の挙兵を勧められたのだといいます。
そして、1180年(治承4年)がやってきます。
京都では平清盛の人気は急降下。
そんな時、赦免されて京都に帰っていた文覚が、再び伊豆の頼朝の前に現れます。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
伝説によると・・・
文覚は不動明王像を担いでいました。
この不動明王像は、八坂の塔が傾いてしまったときに、浄蔵貴所が祈祷の本尊としたもので、長く神護寺に置かれていたのだといいます。
文覚はその不動明王像に以仁王の令旨を隠して頼朝に届けたのだとか・・・
さて、その不動明王像は今どこにあるのか???
鎌倉の浄光明寺の不動堂に祀られている不動明王像は「八坂不動明王」と呼ばれています。
浄光明寺は源頼朝が文覚に命じて建てさせた堂がそのはじまりとも言われています。
八坂不動明王は大晦日の晩、除夜の鐘が撞かれる頃に開帳されます。
948年(天暦2年)、八坂の塔は皇居の方へ傾いてしまったのだそうです。
それを法力で戻したのが浄蔵貴所だったのだとか。
神護寺は弘法大師ゆかりの寺。
平安時代後期には衰退してしまいますが、源頼朝の助勢を受けながら文覚が再興しました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
2022年の大河ドラマ