1180年(治承4年)8月17日、源氏再興の兵を挙げ、相模国へと進軍した源頼朝。
8月23日には石橋山に布陣。
先陣を命じられたのは佐奈田与一義忠。
頼朝から「大庭景親と俣野景久を討って手柄をたてよ」と命じられた与一は、郎党の文三とともに壮絶な死を遂げます。
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『源平盛衰記』によると・・・
与一は、「三浦義明の弟岡崎義実の嫡子佐奈田与一義忠、生年25、我と思わん者は組めや」
と叫ぶと15騎ばかりで駆け出した。
一方の平家方は、大庭景親、その弟俣野景久、長尾定景、曽我祐信、山内経俊、稲毛重成、熊谷直実ら73騎。
豪雨の中、まず与一に近づいてきたのは岡部弥次郎。
俣野景久と思った与一は、組み伏せて首を討つが、景久ではなかったため首を谷間に投げ捨て前進を続ける。
そして、目当ての景久と出会った与一。
組み打ちを始めるが、2人ともに馬から落ち、上になり下になりの乱闘が続き、やっとのことで景久を組み伏せた与一だったが、首を取るため刀を抜こうとしても岡部の首を斬ったときの血糊で鞘が抜けない。
そうこうしているうちに景久の従弟の長尾定景に討たれてしまったのだという。
そのころ文三は、谷一つ隔てた峰で戦っていたが、稲毛重成に与一が討たれたことを知らされる。
重成は文三を助けてやろうと「逃げよ」と声をかけるが、文三は敵方に斬り込んで屈強の兵8人を斬り倒した後、討たれたのだという。
(石橋山古戦場)
(石橋山古戦場)
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