教待堂には、智証大師(円珍)入山まで三井寺を護持していたという教待和尚の像が安置されています。
教待和尚は、大師を迎えると石窟に入って姿を隠したのだといいます。
のちに大師が石窟の上に建てたのが教待堂。
像を安置する須弥壇の下には、井戸のような石窟があり、三井寺の僧が出家の際に剃髪した髪を納める伝統があるのだといいます。
『古今著聞集』によると・・・
850年(仁寿元年)、日吉山王権現の託宣を受けて唐国へ渡った智証大師。
その時、大師の前に現れたのが新羅明神。
帰国後、再び現れた新羅明神は、三井寺の地に寺院建立を勧め、大師の仏法を守護することを約束します。
大師が三井寺を訪れると、そこには教待和尚という162歳になるという老僧が待っていました。
教待和尚は、天智天皇の子孫・大友都堵牟麿(おおとものつとむまろ)を呼び出して三井寺建立の由来を語らせ、「長年、寺を管理してくれる者を待っていた」と話し、大師に寺の寄進を申し出ました。
そして、間もなく、教待和尚は姿を消してしまいます。
教待和尚は弥勒菩薩の化身で、琵琶湖で亀や魚をとって食していましたが、庵にあった亀の甲羅や魚の骨が蓮華の花に変わっていたのだといいます。
その頃、三井寺は天智・天武・持統の三天皇が誕生したときに産湯に用いられたという「三井の霊泉」があることから「御井寺」で呼ばれていました。
智証大師は、「御井寺」を「三井寺」に改め、唐から請来した経巻法具などを納める唐院を建立し、三井寺を中興したのだと伝えられています。
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鎌倉との繋がりを求めて。