『吾妻鏡』によると・・・
1201年(建仁元年)9月7日、鞠の名人・紀内所行景(きないどころのゆきかげ)が京都から鎌倉に到着します。
源頼家が後鳥羽上皇に願い出て実現したのだそうです。
9月9日、大江広元に連れられて御所に参った行景は、頼家と対面し、銀剣を賜っています。
そして9月11日、紀内所行景が鎌倉にきて初めての蹴鞠が催されます 。
頼家に付き合ったのは、北条時連(時房)・紀内所行景・冨部五郎・比企時員・肥多宗直・大輔房源性・加賀房義印ら。
9月15日は鶴岡八幡宮の放生会。
頼家は、この日も早朝に蹴鞠を催したのだといいます。
鶴岡八幡宮の放生会は、8月15日でしたが・・・
8月11日に襲来した台風で、鎌倉の家々が押し潰され、港では船がひっくり返され、鶴岡八幡宮寺の回廊や八足門を始めとする仏閣・塔廟が倒れてしまい、万のうち一つも災難に合わない所はなかったというほどの被害を受けてしまいます。
下総国の葛西郡の海辺では、潮が押し寄せて農民や漁師などの家が巻き込まれ、一千余人が波にまかれて溺れ死んだのだといいます。
そのため放生会が延期されていました。
8月23日にも台風が襲来。
二度の台風で、五穀は全滅してしまいます。
9月20日、御所で蹴鞠。
この日の『吾妻鏡』は、世間の窮状を顧みず連日蹴鞠に精を出している頼家を批判して「凡そ(およそ)此の間政務を抛ち(なげうち)、連日の此の藝を專らに被(され)・・・・」と記しています。
9月22日も蹴鞠。
この日、北条泰時は頼家の近習の一人中野能成を呼び
「蹴鞠は、奥深い藝なので夢中になることに文句はないが、二度の台風で、寺社・民家が破壊され、五穀は不作となり、飢饉に陥っているときなので、慎むべき」
と語ります。
これに対して頼家は、父の義時や祖父の時政を差し置いて忠告してきたことに機嫌を損ねたようです。
泰時を心配した近習の親清法眼は、10月2日、頼家の機嫌が直るまで病気と称して、しばらく伊豆国へ帰っているように助言したのだそうです。
翌日、泰時は伊豆国へ下向。
ただ、これは頼家が機嫌を損ねたからではなく、飢饉で困っている領民を救うためで、もともと予定していたことだったのだといいます(北条泰時の徳政)。
伊豆国で徳政を行った泰時は10日に鎌倉に帰っています。
『吾妻鏡』は、北条泰時の快挙と源頼家の愚行を対比させて伝えたかったのでしょうか・・・
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蹴鞠は平安時代に宮中で流行し、鎌倉時代には武士階級でも盛んに行われるようになった遊戯。
ただ、単なる遊戯ではなかったようです。
治天の君・後鳥羽上皇は、蹴鞠に秀で、その道の長者と称されていたそうです。
そうなると、政治の上で蹴鞠は重要な藝。
源頼家は、蹴鞠を好み、政務を疎かにし、飢饉で苦しむ者を顧みない暗君として『吾妻鏡』に描かれていますが・・・
もしかすると、源頼家は後鳥羽上皇と渡り合うために蹴鞠に熱中していたのかも。
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