『平治物語』によると・・・
1159年(平治元年)12月27日、平治の乱で平清盛に敗れて都を落ちた源義朝は、源義平・源朝長・源頼朝・源重成・平賀義信・鎌田政清・金王丸の僅か八騎で東国を目指します。
美濃国の青墓宿に着くと、義平は義朝の命で東山道を下って東国を目指しますが・・・
1月3日、東海道を下った義朝が、尾張国野間で長田忠致の裏切りで暗殺されてしまいます。
飛騨国に下っていた義平は、大勢を味方に付けて東山道から京へ攻め上るつもりでいましたが、義朝が討たれたと聞くと、家来が皆心変わりをして去ってしまったことから、自害を考えます。
しかし、ここで無駄死するくらいなら、清盛父子の一人でも討って無念を晴らそうと考え直します。
京都に戻った義平は、義朝の家臣で平治の乱後に平家の使用人となっていた丹波国の志内景澄を頼って、景澄の下人として六波羅に入り、平家の様子を窺っていましたが・・・
景澄の膳を使用人が食べ、使用人の飯を景澄が食べていたのを家主に見られてしまいます。
「あの下人は義平に違いない」と感じた家主は平家に通報。
1月18日、難波経遠の三百騎余りに押し寄せられてしまいました。
その場を逃れた義平は、近江国の石山寺のあたりに隠れていましたが、1月25日、難波経房の郎党に生け捕りにされ、六波羅へ連行されました。
死罪となった義平は、六条河原で難波経房に斬られますが・・・
刑場で義平が、
「己は義平の首を討つほどの者なのか?
晴れの舞台なのだから上手に斬れ!
もし、下手に斬ったならば、己の面に食らいつくぞ!」
と言うと経房は、
「首を斬られた者が、どうやって喰らいつくのだ」
と返します。
義平は、
「今ではない!あとで雷となって蹴り殺してやる!」
と言い残したのだとか。
数年後・・・
難波経房は平清盛の供をして布引滝を訪れます。
すると、豪雨となり、経房は雷に打たれて死んだのだと伝えられています。
(大津市)
石山寺の多宝塔は、源頼朝が兄義平を匿ってくれたお礼に寄進したのだと伝えられています。
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