八田知家:『前賢故実』より
~国立国会図書館デジタルコレクション~
八田知家は、常陸国八田(現在の筑西市)を本拠として八田武者所と称した武将。
下野国宇都宮氏の二代当主・宇都宮宗綱(八田宗綱)の四男で1142年(康治元年)の誕生。
源頼朝の乳母を務めた寒河尼は姉。
源義朝の十男という説もあるが・・・
義朝の九男は1159年(平治元年)に生まれた源義経。
『保元物語』によると、知家は1156年(保元元年)の保元の乱に義朝の郎党として活躍しているようなので、義朝の十男とするには無理がある・・・。
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1180年(治承4年)、源頼朝の挙兵に参じ、下野国茂木郡地頭職を安堵される。
1183年(寿永2年)2月、野木宮合戦で小山朝政らととも頼朝の叔父志田義広と戦い勝利。
源平の戦いでは・・・
1184年(元暦元年)8月8日、頼朝は平家討伐のため主力武士団を弟の範頼に与えて西国へ派遣。
知家も従軍した。
範頼軍は、翌1185年(元暦2年)1月26日には豊後国へ渡り、2月1日には葦屋浦の戦いに勝利するなど、3月24日の壇ノ浦の戦いでの平家滅亡に貢献。
しかし、前年に源義経が頼朝に無断で左衛門少尉の任官と檢非違使の宣旨を受けたとき、知家も右衛門尉に任官されていたため、4月15日の頼朝の手紙で「西国へ下る途中の京都で任官されるなど、どんくさい鈍い馬が道草を食っているようなものだ」と罵られている。
1189年(文治5年)7月17日、千葉常胤とともに奥州征伐の東海道(常磐道)の大将軍に任ぜられ、7月19日に出陣。
1193年(建久3年)6月、前月に起こった曽我兄弟の仇討ち事件をきっかけにして、同じ常陸国の多気義幹(たけよしもと)の謀叛を訴え、義幹の所領を没収させた。
1199(建久10年)1月13日に頼朝が死去すると、20日には頼家が家督を相続するが、4月12日には頼家の訴訟親裁が停止され、宿老13人による合議制によることが決定されると遠元もその一人に加わる。
1203年(建仁3年)6月23、頼家への謀叛の疑いで捕えられ、常陸国へ流されていた阿野全成(頼朝の異母弟)を誅殺。
1218年(建保6年)3月3日死去。
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茨城県つくば市にあった小田城は、八田知家の築城と伝えられている。
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一説によると、源頼朝を暗殺しようとして捕らえられたという平景清は、八田知家に預けられ、絶食して果てたのだという。
(鎌倉)
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知家の築城と伝わる小田城跡の北東方向には、社会福祉事業に力を注ぎ医王如来と呼ばれた忍性が暮らしていたという三村山(宝篋山)がある。
宝篋山
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2022年の大河は北条義時