池禅尼は、平忠盛の正室、平清盛の継母。
名は宗子。
忠盛との間には、家盛・頼盛がいましたが、家盛は20代で亡くなりました。
忠盛の死後、出家して六波羅の池殿で暮らしたことから池禅尼と呼ばれます。
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1159年(平治元年)12月、平治の乱が起こり、平清盛が源義朝を破ります。
義朝は、嫡男の頼朝らとともに都を落ちて、東国で再起を図ろうとしますが、翌1160年(平治2年)1月3日、尾張国で長田忠致に殺されてしまいます。
義朝一行と途中ではぐれてしまった頼朝は、2月9日、平頼盛(池禅尼の子)の家人・平宗清に捕えられ、清盛のいる六波羅へ連行されました。
源氏の嫡流を清盛がどうするか?
死刑が当然なのかもしれませんが・・・
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『吾妻鏡』の元暦元年6月1日条によると・・・
頼朝を捕らえた平宗清は、頼朝の命乞いをしたそうです。
『平治物語』によると・・・
宗清は池禅尼を通じて頼朝の助命を願ったようです。
頼朝が亡くなった子の家盛に似ていると聞かされた池禅尼は、重盛(清盛の嫡男)に、頼朝に会せてくれるよう頼みます。
重盛が清盛に頼んでみますが、当然のことながら許しは出ません。
嘆いた池禅尼は・・・
断食を始めて頼朝の助命を嘆願したのだとか。
さすがの清盛も処刑を延期し、ついには流罪に処することになったのだそうです。
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こうして頼朝は、1160年(永暦元年)3月11日、伊豆国へ流罪となりました。
頼朝を助けた池禅尼は、1164年(長寛2年)頃に亡くなったのだと伝えられています。
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それから約20年後の1180年(治承4年)、頼朝は源氏再興の挙兵。
1183年(寿永2年)には、平家一門が都落ちし、後白河法皇による平家追討の院宣が出されました。
それに伴い、平家一門の官職は剥奪され、所領も没収されました。
『吾妻鏡』によると、
1184年(寿永3年)4月6日、頼朝は、池禅尼の子頼盛とその妻の所領について、池禅尼の恩に報いるため、朝廷の許しを得て、これまでどおり頼盛夫妻の領地としています。
※この頃、頼盛は鎌倉にいたようです(前年に亡命か・・・?)。
同年5月19日、頼朝は、頼盛を誘って、海岸をぶらぶらと歩き、由比ヶ浜から船で森戸まで足を延ばしています。
6月1日には、京都へ帰る予定の頼盛を招いて、餞別の宴を催しました。
頼朝は頼盛が鎌倉へ下向する時に、頼朝の命乞いをしてくれた平宗清を連れて来るように伝えたそうですが・・・
宗清はこう断ったそうです。
「戦場に向かうのであれば進んで先陣を受けます。
関東からの招きは、かつての恩を返えそうとしているのでしょうか?
平家が落ちぶれてしまっている今、関東へ出向くことは、恥ずべき事です」
そして、屋島の平宗盛の下へ行ってしまったのだそうです。
※その後、宗清がどうなったのかは不明。
6月5日、頼盛が帰洛。
頼盛の鎌倉滞在中は、連日の酒宴が設けられ、金銀や豪華な織物が与えられたそうです。
1185年(元暦2年)6月18日、頼盛は東大寺で出家。
1186年(文治2年)6月2日、頼盛死去(54歳)。
※平清盛の兄弟で壇ノ浦の戦い後も生き残っていたのは頼盛だけでした。
(愛知県知多郡美浜町:野間大坊)
頼朝の父義朝の墓の傍らには、頼朝の助命嘆願をした池禅尼の供養塔が建てられています。
野間大坊に頼朝が寄進した地蔵菩薩像は、頼朝の念持仏で池禅尼から賜ったものなのだと伝えられています。