牧の方は、駿河国大岡牧の豪族・牧宗親の娘(妹とも)。
鎌倉幕府の初代執権・北条時政の後妻。
1182年(寿永2年)11月に、北条政子が源頼朝の浮気相手の亀の前の屋敷を打ち壊させた事件では、牧の方が頼朝の浮気を政子に伝えたのだと言います(浮気発覚・政子激怒)。
1205年(元久2年)6月の畠山重忠の乱は、平賀朝雅が畠山重忠のことを牧の方に讒言したことから起こったと伝えられています。
京都守護だった平賀朝雅は、新羅三郎義光を祖とする源氏。
牧の方の娘を妻としていました。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
『吾妻鏡』によれば・・・
1205年(元久2年)閏7月19日、牧の方が将軍源実朝を亡きものにして、娘婿の平賀朝雅を将軍に据えようとしているとの噂が流れていたことから、北条政子は、長沼宗政・結城朝光・三浦義村・三浦胤義・天野正景らを北条時政邸にいる実朝を迎えに行かせ、北条義時邸に迎え入れました。
時政が召し抱えていた勇士たちも悉く義時邸で実朝の警護にあたったのだそうです。
時政はこの日のうちに出家したのだとか・・・。
翌20日、北条時政は伊豆国北条郷へ下向。
北条義時が執権となります。
同日、三善善信や安達景盛らが義時邸に集まり、京都の平賀朝雅を討ち取る相談をしています。
25日には、京都の御家人に平賀朝雅を討伐することを伝える使者が到着。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
そして、26日。
この日、平賀朝雅は後鳥羽上皇の仙洞御所へ行っていました。
囲碁を打っているところへ、召し使いの少年が走ってきて、追討使のことを伝えます。
朝雅は動ぜずに元の座へ戻り、囲碁の形勢判断した後、
「関東から討手を差し向けられました。
逃がれる所もなく、暇を頂きますよう・・・」
と上皇にお願いしました。
その後、六角東洞院にある宿舎に戻ると、討手に襲撃され、しばらくは防戦をしましたが、防ぎきれずに松坂辺りへ逃亡。
そこで山内持寿丸(後の六郎通基・山内経俊の六男)に射止められたのだそうです。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
さて・・・
事件の原因を作った牧の方はどうなったのか・・・
夫の北条時政とともに伊豆へ追放されたようですが、平賀朝雅に嫁いだ娘が公家と再婚すると、娘夫婦を頼って京都で暮らしたのだとか・・・。
(伊豆の国市:願成就院)
『吾妻鏡』によると、1215年(建保3年)1月6日8時頃、北条時政は伊豆の北条の地で亡くなりました(87歳)。
腫物に悩まされていたようです。
時政の墓がある願成就院は、時政が源頼朝の奥州征伐の戦勝を祈願して建立した寺院。
本尊の阿弥陀如来像をはじめ、毘沙門天・不動明王・矜羯羅童子・制咤迦童子の諸像は、時政が運慶に依頼して造立したもの。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆