源義経(牛若丸)は1159年(平治元年)誕生。
父は源義朝、母は常盤御前。
幼名は牛若。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は異母兄。
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(北区紫竹牛若町)
牛若誕生井のある場所には、源義朝の屋敷があったとされ、かつては「洛北の名所」だったのだそうです。
(北区紫竹牛若町)
義経が誕生したときに産湯を汲んだという井戸の跡。
(北区紫竹東栗栖町)
常盤御前が安産祈願のために参ったという寺。
地蔵菩薩は「常盤地蔵」と呼ばれています
(北区紫竹上野町)
常盤御前の守り本尊「腹帯地蔵」を安置する寺。
(紫野下築山町)
常盤御前が化粧のために使用した井戸と伝えられています。
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1159年(平治元年)、源義朝が平治の乱で平清盛に敗れると、常盤御前は、三人の子・今若(阿野全成)、乙若(源義円)、牛若(源義経)を連れて幼少の頃より信仰していた清水寺に参り、千手観音に三人の子の無事を祈願したのだと伝えられています。
子安塔には千手観音が祀られています。
(東山区本町)
平治の乱後、大和国へと逃れた常盤御前と三人の子。
しかし、清盛のもとへ自首するため再び京都へ戻ってきます。
寶樹寺は、常盤御前と三人の子を救ったという薬師如来像を安置する寺院。
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清盛に助命された常盤御前と三人の子。
今若は醍醐寺に、乙若は園城寺に入って出家。
牛若は11歳になって鞍馬寺に預けられ遮那王と呼ばれました。
(鞍馬寺)
鬼一法眼社(きいちほうげんしゃ)は、義経に兵法を授けたといわれる武芸の達人・鬼一法眼を祀ります。
川上地蔵堂
(鞍馬寺)
(鞍馬寺)
川上地蔵堂には、義経の守り本尊の地蔵尊が祀られています。
(鞍馬寺東光坊跡)
東光坊は義経が住んでいた所。
義経は毎夜兵法の修行のため、東光坊から奥の院まで通っていたのだと伝えられています。
(鞍馬寺)
東光坊から奥の院へ剣術の修行に通う途中、この清水を汲んで喉の渇きを潤したのだと伝えられています。
(鞍馬寺)
義経と鞍馬天狗が出会った所と伝えられています。
(鞍馬寺)
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五条大橋は、牛若丸(義経)と弁慶が出会ったという伝説で知られる橋。
ただ、『義経記』では、二人が出会ったのは五條天神社。
(下京区)
最終決闘の場所も五条大橋ではなく、清水寺での出来事だったのだとか・・・。
1176年(安元2年)6月、五條天神社で義経と出会った弁慶。
1000本目の太刀を奪いたい弁慶は義経に襲いかかりますが、離れ業で弁慶の太刀をかわす義経。
その夜は決着がつきませんでした。
翌日は清水寺の祭礼。
門前で義経を見つけた弁慶は、薙刀で襲いかかりますが、またしても軽くあしらわれてしまい、清水の舞台で勝負することに。
しかし、弁慶は義経に負けて主従の契りを結んだのだとか・・・
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(三条通)
幼少期を三条京極で過ごしたのだという弁慶。
弁慶石は子供の頃の弁慶が愛した石なのだとか・・・。
(比叡山延暦寺)
やがて比叡山延暦寺に預けられた弁慶。
弁慶水は、千手堂に千日間の参籠をしたときに閼伽水を汲んだ場所と伝えられています。
(園城寺)
園城寺初代の梵鐘。
弁慶がこの鐘を奪って比叡山に引きずり上げたという伝説から「弁慶の引き摺り鐘」と呼ばれる古鐘です。
(比叡山延暦寺)
比叡山西塔の常行堂・法華堂は、2棟の建物が廊下でつながり、弁慶が廊下に肩を入れて担いだという伝説が残されていることから「にない堂」とも呼ばれています。
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(上京区)
1174年(承安4年)、鞍馬寺で出家することを嫌った義経は、奥州平泉へ下り藤原秀衡を頼ります。
義経は、首途八幡宮(かどではちまんぐう)で金売吉次と落ち合い、道中の祈願をして奥州へと旅立ったのだといいます。
(鞍馬寺)
鞍馬寺の背比べ石は、奥州へ下る義経が名残を惜しんで背を比べた石と伝えられています。
(東山区蹴上)
義経大日如来は、義経が九条山で斬り殺した平家武者の菩提を弔うために置かれた石仏と伝えられています。
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1180年(治承4年)、源頼朝が挙兵すると、義経は、わずかな郎党を引き連れて頼朝のもとへと参じます(黄瀬川の対面・参考:八幡神社)。
最初の戦は宇治川の合戦。
ここから義経の不敗神話が始まりました。
(六波羅蜜寺)
六波羅蜜寺の水かけ不動尊は、平家討伐に向かう義経が戦勝祈願したという不動尊。
雨乞いの霊場・神泉苑は義経と静御前が出会った場所といわれています。
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源平の戦いで活躍して平家を壇ノ浦に滅ぼした義経でしたが、頼朝に無断で後白河法皇より任官されるなどの問題を起こして頼朝と対立。
1185年(元暦2年)、頼朝の命により土佐坊昌俊が義経の六条堀川館を襲撃。
この事件をきっかけに義経は逃亡生活を送ることになりました(土佐坊昌俊の義経襲撃)。
比叡山延暦寺と興福寺の僧兵は、頼朝の追手から逃げる義経を匿っていたのだといいます。
その後、再び奥州平泉の藤原秀衡を頼った義経でしたが、秀衡が亡くなると藤原泰衡に攻められて衣川館で自刃しました。
(右京区)
源光寺は、常盤地蔵とも呼ばれる寺。
義経の母・常盤御前は、源光寺のある常盤の地で生まれ、晩年には生地に戻って庵を結び余生を送ったのだと伝えられています。
『吾妻鏡』によると、1186年(文治2年)6月6日、常盤御前は一条河崎観音堂の辺りで捕えられていますが、この『吾妻鏡』の記述を最後に常盤御前の消息は不明です。
(鞍馬寺)
奥州平泉の衣川館で最期を遂げた義経の魂は、幼少時代を過ごした鞍馬山へ戻ったのだといいます。
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日本最古七福神
鎌倉との繋がりを求めて。