~八重姫と長男・千鶴丸~
伊豆配流の身だった頼朝は、監視役だった伊東祐親が大番役で京都へ行っているときに、祐親の三女と結ばれ、男子を授かったのだと伝えられてます。
その子は千鶴丸と名付けられたようですが・・・
3歳になる頃、祐親が大番役から戻ってきます。
自分の娘が頼朝の子を産んだと知った祐親は、平家の聞こえを恐れて千鶴丸を殺害、八重姫も頼朝から取り上げて江間小四郎に嫁がせたのだといいます。
さらに祐親は、頼朝をも討とうと考えて討手を差し向けますが、祐親の次男・祐清がそのことを頼朝に知らせたため、頼朝は走湯権現(現在の伊豆山神社)へ逃げ込み難を逃れたのだとか・・・
この事件がいつの頃のことなのかは不明ですし、伝承の域を出ませんが、『吾妻鏡』には「1175年(安元元年)、伊東祐親が頼朝を殺そうとし、祐親の次男祐清がそのことを頼朝に教えたため走湯権現に逃れることができた」という記録があるようです。
祐親が頼朝を殺そうとしていたことは確かな事のようですが、その原因が八重姫と千鶴丸なのかどうかはわかりません。
※頼朝を助けた祐清は、頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていました。
📎伊東祐親の娘八重姫との恋
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~正室・北条政子と子どもたち~
伊東祐親の討手から逃れた頼朝は、走湯権現に逃れた後、祐清の薦めで北条時政の屋敷に匿われたのだとか・・・
そこには政子がいます。
当然の如く結ばれたようです。
結婚した時期は不明ですが、長女の大姫が1178年(治承2年)に誕生していると考えられることから、その前年の1177年(治承元年)頃ではないかと考えられています。
その後政子は、1182年(寿永元年)8月12日に長男の頼家、1186年(文治2年)に次女の三幡、1192年(建久3年)8月9日に次男の実朝を産んでいます。
📎北条政子と結婚
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~亀の前~
亀の前は、頼朝が流人の頃からの愛人だったそうです。
頼朝は、政子が長男の頼家を懐妊したときに、鎌倉に近い小坪に呼び寄せて小中太光家の屋敷に住まわせました。
その後、飯島の伏見広綱の屋敷に亀の前を移していたのですが・・・
1182年(寿永元年)11月10日、広綱の屋敷は政子によって打ち壊されたのだと伝えられています。
📎浮気発覚・政子激怒
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~大進局と貞暁~
大進局は、常陸入道念西の娘。
母は源為義の娘といいます。
大進局は、御所勤めをしていましたが、普段から頼朝と密通していました。
そして、1186年(文治2年)2月26日、長門江七景遠の浜の家で男子が誕生します。
のちの貞暁です。
しかし、北条政子の嫉妬によって、予定されていた出産後の儀式はとりやめとなり、貞暁を育てていた長門江太景国は、政子の不興をかったことから、貞暁とともに深沢の里あたりに隠れ住んだといいます。
1191年(建久2年)1月23日、頼朝は、政子の嫉妬が激しいため、大進局に京に近い伊勢国に所領を与えて上洛を促し、翌年5月19日、貞暁を仁和寺に入室させました。
このとき、頼朝は貞暁に守り刀を与えたといいます。
(大進局も京都に移り住んでいたものと思われます。)
その後、貞暁は高野山に登り、1231年(寛喜3年)2月22日亡くなりました。
(母に先だって亡くなったといいますが、大進局の没年は不明。)
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他にこんな落胤伝説も。
~利根局と大友能直~
大友氏の初代当主・大友能直の母は利根局。
利根局は頼朝が伊豆に流されている頃の妾で、能直は頼朝のご落胤という説があるらしい・・・。
~丹後局と島津忠久~
島津氏の祖・島津忠久の母は丹後局。
丹後局は、頼朝の乳母の比企尼の長女。
忠久は頼朝と丹後局との間に生まれた子とする伝説が各地に残されているようです。
(大阪:住吉大社)
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