崇徳天皇御廟は安井金毘羅宮の北にあります。
崇徳天皇(上皇)は、1156年(保元元年)の保元の乱で讃岐へ流罪となり、京に戻ることなく1164年(長寛2年)に崩御(46歳)。
上皇に寵愛されていた阿波内侍(あわのないし)が遺髪を譲り受けて、ここに塚を築いて霊を慰めたのだと伝えられています。
安井金毘羅宮は、藤原鎌足が創建した藤寺をその始まりとしています。
崇徳上皇は藤寺の藤を愛し、1146年(久安2年)に堂塔を修造して、寵愛していた阿波内侍を住まわせました。
保元の乱で崇徳上皇が流罪となると、阿波内侍は上皇自筆の御影を観音堂に祀り、日夜勤行していたそうです。
そして、1177年(治承元年)、大円法師が観音堂を参拝すると、崇徳上皇の霊が現れます。
そのことを後白河法皇に奏上すると、法皇の命によって光明院観勝寺が建立されます。
それが安井金比羅宮の起こりだと伝えられています。
この巨石の穴を表からくぐれば縁が切れ、裏からくぐると良縁に授かるといわれています。
参考までに。
「保元の乱」は、後白河天皇と崇徳上皇の分裂に、源氏と平氏の武力が加わった政変。
この乱で活躍したのが源頼朝の父・義朝。
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