このとき繰り広げられたのが佐々木高綱と梶原景季の先陣争いです。
2人は、出陣前に源頼朝から名馬を与えられていました。
佐々木高綱が「生食」(いけづき)、梶原景季が「磨墨」(するすみ)。
『平家物語』によれば、
梶原景季は、頼朝に「生食」を所望しますが、「この馬は万が一の時、頼朝が甲冑を着けて乗る馬であるから、磨墨ではどうか。磨墨も生食に劣らない名馬であるぞ」といって「磨墨」を与えたといいます。
(東京大田区:万福寺)
ところが・・・
佐々木高綱が出陣する際に頼朝のところへ挨拶に来ると、「生食を所望する者は大勢いるが・・・」
といって「生食」を高綱に与えてしまいます。
感激した高綱は、「この御馬で宇治川の先陣を承るつもりです。もし私が討死したとお聞きになったときは、先陣は他の者に渡したとお思い下さい。生きているとお聞きになられたならば、先陣は確かに高綱が切ったとお思い下さい」といって頼朝の前を下がったといいます。
その後、進軍する追討軍の中で、高綱が「生食」に乗っていることを知った景季は、「頼朝から恥辱を与えられた」として、高綱を殺して自分も自害しようと考えます。
しかし、高綱が機転を利かせて、「宇治川を渡るためには、屈強な馬が必要だったので、頼朝様の生月を盗んで参上した」と言うと、景季は、「そうであれば、景季も盗んでくればよかった」と言って笑ったといいます。
~宇治川の先陣争い~
宇治川の戦いは、1月の事でしたので、雪解け水もあって水位が上昇していました。
雪解け水で水位が上昇していた宇治川をどのように渡河するか源義経が考えていると、畠山重忠が「瀬踏みをいたしましょう」といって、五百余騎の轡を並べていました。
すると、平等院北東、橘の小島が崎から、武者二騎が馬を激しく走らせて出てきます。
梶原景季と佐々木高綱でした。
このとき景季は、高綱より一段ほど先に進んでいたといいます。
高綱は、「腹帯がゆるんで見えますぞ。お締めなさい。」と景季にいうと、景季は、左右の鐙を踏みゆるめ、手綱を「磨墨」のたてがみに投げかけ、腹帯を解いて締め直しました。
その間に高綱は、景季を追い抜いて、「生食」を川へと打ち入れます。
騙されたと感じた景季も、すぐに「磨墨」を川へ打ち入れ、「佐々木殿、高名を上げようと思って失敗なさるな。水の底には大綱が仕掛けてあるようだぞ」と声をかけますが、高綱は、太刀を抜いて、「生食」の足にかかった大綱を打ち切りながら進み、「生食」も宇治川の流れを気にせず真一文字に渡り、向かいの岸へ乗り上げたといいます。
そして、「我こそは宇多天皇から九代目の後胤、佐々木三郎秀義の四男、佐々木四郎高綱、宇治川の先陣」と名乗ったそうです。
一方、景季の「磨墨」は、川の流れに押し流され、はるか下流から岸に上がったといいます。
こうして、宇治川の戦いは、佐々木高綱が先陣を切ったということです。
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