稲毛重成は秩父一族。
1180年(治承4年)8月の石橋山の戦いでは源頼朝に敵対し、佐奈田与一義忠の郎党文三を討ち取りますが、頼朝が安房に渡り体勢を整えると、10月、一族の畠山重忠らとともに参陣しています。
(石橋山古戦場)
稲毛重成に討たれた陶山文三家康を祀る御堂。
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その後、源平合戦や奥州征伐で活躍し、頼朝の二度の上洛にも随行しました。
1195年(建久6年)の二度目の上洛では、その帰路に妻の危篤が知らされ、頼朝より駿馬が下されています。
急ぎ帰った重成でしたが、7月4日、妻は亡くなりました。
この時、重成は出家したのだといいます。
※重成の妻は北条時政の娘(北条政子の異母妹)です。
(川崎市)
出家した稲毛重成は、枡形城の北側の広福寺を中興して氏寺としたといいます。
墓地には重成夫妻の墓が残されています。
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1198年(建久9年)12月、重成が妻の供養のため架けた相模川の橋供養が頼朝も参列して行われました。
渡り初めをしたという頼朝でしたが、その帰路に落馬し、その怪我が原因で翌年正月13日に亡くなっています。
(茅ヶ崎市)
関東大震災で浮き出てきた橋脚は、頼朝が渡り初めをした橋のものと考えられています。
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1205年(元久2年)、重成は「畠山謀叛」を讒言したとして北条義時の命により討ち取られました(参考:畠山重忠の乱)。
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