『吾妻鏡』の記録は、序文のあと、以仁王の令旨から始まります。
1180年(治承4年)4月9日、後白河法皇の皇子・以仁王(もちひとおう)は、源頼政のすすめで、全国の源氏に平家打倒の令旨を発しました。
頼政は、夜になって息子の仲綱とともに三条高倉の以仁王のところに行って、「頼朝などを味方にして、平清盛から政権を取り戻しましょう」と申し上げたのだとか。
平家打倒の令旨が発出されると・・・
ちょうど京都にいたという源為義の子行家が、「まず伊豆の頼朝に伝え、その後、他の源氏にも伝えるように」と命じられています。
4月27日には、伊豆国の北条館(北条時政邸)に到達。
源頼朝は、源氏の氏神・石清水八幡宮を遙拝してから開いて読んだのだといいます。
(伊豆の国市)
(京都)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
下す
東海、東山、北陸、三道諸国の源氏並びに群兵等の所へ
応えて早く清盛法師並びに従類叛逆の輩を追討の事
右、前伊豆守正五位下源朝臣仲綱宣ず
最勝王(以仁王)の勅を奉りて称(い)う
清盛法師並びに宗盛等、威勢を以て凶徒を起す
国家を亡し、百官万民を悩乱す
五畿七道(全国)を虜掠し、皇院(後白河法皇)を幽閉し、公臣を流罪す
命を断ち、身を流す
淵に沈め、樓(牢)に込め、財を盗り、国を領す
官を奪い職を授け、巧無きに賞を許し、罪あらずに過(とが)を配す
あるいは諸寺の高僧を召し釣(こ)め、修学の僧徒を禁獄す
あるいは叡岳(延暦寺)の絹米を給い下し、謀反の粮米を相具す
百王の跡を断ち、一人の頭を切る
帝皇に違逆し、仏法を破滅し、古代を絶つ者なり
時に天地悉く悲しみ、臣民皆愁う
よって吾一院の第二皇子と為て、天武天皇の旧儀を尋ね、王位推取の輩を追討す
上宮太子(聖徳太子)の古跡を訪ね、仏法破滅の類を打ち亡ぼさんや
ただ人力の構へを憑(たの)むにあらず、ひとへに天道の扶(たす)けを仰ぐ所なり
これによって、もし帝王三宝神明の冥感あらば、何ぞたちまち四岳合力の志なからんや
然らば則ち、源家の人、藤氏の人、
かねては三道諸国の間、勇士に堪えら者、同じく与力し追討令(せし)め、
もし同心せずにおいては、清盛法師の従類になぞらい、死流追禁の罪過に行うべし、
もし勝功あるにおいては、まず諸国の使節に預かり、
御即位の後、必ず乞いに随(したが)い勧賞を賜わるべきなり
諸国承知して宣に依てこれを行え
治承四年四月九日
前伊豆守正五位下源朝臣仲綱
☆ ☆ ☆ ☆ ☆